イギリスは何を生産しているのか?

輸入依存の国が直面する「自国生産」の壁と可能性 序章:ポスト・ブレグジットの現実 2016年の国民投票を経て、2020年に正式にEU(欧州連合)から離脱したイギリス。EU離脱によって、関税、物流、人材の移動など多くの障壁が生まれた。この一連の変化は、イギリス経済の根幹にある「輸入依存構造」を改めて浮き彫りにし、同時に「自国で何を作れるのか」という問いを突きつけている。 ブレグジットによって期待された「主権の回復」とは、自国で物を作り、コントロールする経済力の再建だった。しかし現実はそれほど単純ではない。この記事では、イギリスが現在自国で何を生産しているのかを検証し、そこから見えてくる先進国における生産力の限界と可能性について深掘りしていく。 第1章:イギリスの生産構造の実態 食料品の生産事情 イギリスは肥沃な土地を持つ国ではあるが、農業の国内生産は総需要の約60%前後を賄うにとどまる。小麦やジャガイモ、乳製品、牛肉、豚肉といったベーシックな品目は自国で生産されているが、フルーツ、野菜、魚介類の多くはEU圏や他の地域からの輸入に依存している。 特に野菜類は、気候の影響もあり冬季の自給率が著しく低い。ブレグジット後は、スペインやオランダなどEUの主要供給元との取引に遅延やコスト上昇が生じ、店頭から一部の商品が消えるという事態も経験した。 電化製品とハイテク製造 テレビ、冷蔵庫、スマートフォンなどの家庭用電化製品の大部分は、アジア(特に中国、韓国、日本)からの輸入に依存している。イギリス国内には電化製品の大規模生産工場は存在せず、ロジスティクスと販売に特化したサプライチェーンが整備されているに過ぎない。 一方で、航空宇宙や軍需、先端医療機器の分野では一定の製造力を保っている。ロールス・ロイス(航空機エンジン部門)やBAEシステムズといった企業は世界的にも競争力を持っており、ここに限って言えば「製造大国」と言っても過言ではない。 自動車産業:もはや「イギリス車」は幻想? ジャガー・ランドローバー、ミニ、ロータスなどのブランドは「イギリス車」として世界的に認知されているが、その所有構造を見ると現実は異なる。インドのタタ社、ドイツのBMW、中国の吉利汽車など、実質的には外国資本によって運営されている。 さらに部品の多くはEUやアジア諸国からの輸入に依存しており、組立こそ国内で行われていても、サプライチェーンの大半は国外にある。つまり「国産車」とは言い難い。 第2章:なぜイギリスは自国で作れないのか? 労働コストと経済合理性 最大の障害は「コスト」である。先進国では人件費が高く、工場を運営するには莫大なコストがかかる。これは単に賃金の高さだけでなく、労働法、環境規制、社会保障の充実といった要素も関係している。 逆にアジア諸国では労働力が比較的安価であり、製造コストを抑えられる。この「比較優位」によって、グローバル企業はこぞって製造拠点を海外に移してきた。イギリスもこの流れに逆らうことができなかった。 産業空洞化とスキルギャップ 1980年代以降のサッチャー改革により、イギリスは製造業から金融サービス産業への転換を進めた。その結果、工場は閉鎖され、労働者はホワイトカラー職種へと転換を余儀なくされた。この流れは「産業空洞化」と呼ばれ、今や再び製造業に戻そうにも、熟練労働者が不足している。 技能継承が途絶えたことで、いざ製造ラインを立ち上げても「人がいない」という根本的な問題が生じるのである。 サプライチェーンの国際化 現代の製造業は「部品の90%を世界から集め、10%を国内で組み立てる」と言われるほど、サプライチェーンがグローバル化している。その中で特定の国が「すべてを国内で作る」というのは、コスト的にも技術的にも困難である。 第3章:自国生産の再興は可能か? テクノロジーによる突破口 3Dプリンティング、ロボット工学、AIによる自動化といった技術革新は、「高コストな先進国でも製造が可能な未来」を開く鍵となっている。例えば、ロボットが人間に代わって工場で働くようになれば、人件費の壁は低くなる。 イギリス国内でも、再生可能エネルギー機器、ワクチン製造、衛星開発などにおいてハイテク産業が育成されつつある。これらの分野では、自国での一貫した生産が可能になるポテンシャルがある。 地産地消モデルの再評価 コロナ禍とブレグジットによって、サプライチェーンの脆弱性が明らかとなり、地産地消モデルが見直され始めている。都市型農業、屋内栽培、垂直農法などが注目されており、都市の近郊で野菜を生産する「ローカル・フード」戦略が徐々に進展している。 農業や食品加工分野では、輸入に頼らず地域内で完結するシステムの整備が、政策的にも支援されつつある。 第4章:そもそも「何でも自国で作る」は可能なのか? 自給自足は幻想か 近代以降の経済学においては、リカードの比較優位理論が支配的だ。つまり、すべてを自国で作るよりも、得意な分野に特化し、不足分は貿易で補うほうが経済的に合理的だとされる。実際、先進国のほとんどはこの原則に則って発展してきた。 従って、イギリスが「スマートフォンも冷蔵庫も自国で作る」といった構想を実現するのは、理論的にも現実的にも難しい。必要なのは、全品目の自給ではなく、「重要品目の戦略的自立」である。 重要なのは「選択的自給」 医薬品、エネルギー、食料、水、通信機器、軍需品など、国家運営に不可欠な分野については、一定程度の自国生産能力が必要だ。イギリスにとっての課題は、こうした戦略的セクターに集中投資し、自立度を高めることにある。 結論:生産力とは「物を作る力」ではなく「選び取る力」 イギリスが直面している問題は、「物を作れない」ことそのものではなく、「何を作るべきかを決められない」ことである。先進国における生産とは、単なる工場建設ではなく、資源・人材・技術をどう選択的に配分するかという意思決定の問題なのだ。 ブレグジットによって経済的な苦境に立たされている今こそ、イギリスはこの問いに真正面から向き合う必要がある。グローバル経済とどう折り合いをつけつつ、自国に根差した持続可能な生産体制を構築するか。その解答こそが、ポスト・ブレグジットの真の意味での「主権回復」なのである。

イギリスに成金が少ない本当の理由――今なお社会に根を張る階級制度の実像

はじめに イギリス社会を理解するうえで避けて通れないのが、「階級(class)」という概念である。現代の民主主義国家において法的な階級制度は存在しないが、イギリスでは今なおこの階級意識が日常のあらゆる場面で影響を及ぼしている。とりわけ「成金(nouveau riche)」、つまり急激に富を得た新興の金持ちに対する冷たい視線は、この階級社会の構造を象徴している。本稿では、イギリス社会における階級制度の起源、現代におけるその影響、成金に対する評価、経済的成功の限界、そして今後の可能性について多角的に深掘りしていく。 第1章:階級社会としてのイギリスの成り立ち イギリスにおける階級社会の根は中世にまでさかのぼる。封建制度において王とその臣下である貴族たちが土地を所有し、庶民や農民を支配する体制が築かれた。産業革命を経て資本家や労働者階級が登場したものの、土地を持つことが社会的地位を象徴するという構造は基本的に変わらなかった。 この伝統的な構造の中で、貴族や上流階級は「Old Money(古い金)」としての威信を保ち続けた。資産の多くは土地、不動産、相続財産などによって形成されており、その保有の継続が社会的地位と強く結びついていた。つまり、単なる「金持ち」であることよりも、「どのようにその富を得たか」が重視されてきたのである。 第2章:「Old Money」としての上流階級の実態 現在でも、イギリスの土地の多くは少数の貴族や伝統的な名家によって所有されている。たとえばデヴォン州やスコットランド高地の広大なエステート(荘園)は今も世襲で管理されており、観光や農業、不動産収入などから安定した富を生んでいる。 さらに、オックスフォード大学やケンブリッジ大学といった名門教育機関に代々通う家系は、「文化資本」としての教養とネットワークを維持し続けている。こうした伝統的なエリート層は、政治、メディア、司法、ビジネスといった分野でも影響力を持ち、イギリス社会の要所を支配している。 このような人々は、クラブや社交界、習慣や発音(Received Pronunciation)などでも独特の世界観を形成しており、部外者が容易に入り込めるものではない。彼らにとって「上流階級になる」とは、単に経済的に成功することではなく、代々の教養、伝統、立ち居振る舞いを含むトータルな文化的素養を意味している。 第3章:なぜイギリスには「成金」が定着しないのか 現代イギリスでも、金融業界、IT起業家、プロスポーツ選手、YouTuberなど、新たな分野で一気に富を得る人々が現れている。たとえば、ロンドンのケンジントンやチェルシーには、アラブ諸国、ロシア、中国などから移住してきた新興富裕層が高級不動産を購入し、豪奢な暮らしを営んでいる。 しかし彼らが「社会的に受け入れられているか」といえば、答えは否である。イギリス社会では、伝統的なクラブへの加入には推薦が必要であり、家柄や教育歴が重視される。単に金があるという理由だけでは、名門クラブに入会することも、エスタブリッシュメントに加わることも難しい。 また、英語の発音や服装、趣味(たとえば狩猟やクラシック音楽)、さらには紅茶の淹れ方に至るまで、「正しい上流階級の作法」が求められる。こうした暗黙の文化的規範は新興の成金にとって高いハードルとなる。 第4章:階級を超えることは可能か? イギリスでは、法律上は誰もが平等であり、教育の機会も広く提供されている。政府は起業支援やスタートアップ促進にも力を入れており、実際に評価額10億ドル超のユニコーン企業も数多く誕生している。 しかし、社会的な上昇移動(social mobility)は依然として難しい課題である。名門パブリックスクール(実質的には私立校)への入学には高額の学費が必要であり、その先にある名門大学やエリート職業への道は、依然として「旧家の子弟」によって占められている。 たとえ経済的に成功しても、階級的承認を得るには、子どもの教育、結婚相手の家柄、言語や趣味、さらには付き合う人々に至るまで、階級的な要素をそろえる必要がある。つまり、成功とは単なる金銭的なものではなく、「文化的統合」が鍵を握るのである。 第5章:今後の展望――階級意識の変化はあるのか? 近年、イギリスでも階級の固定化や不平等に対する批判が高まりつつある。若い世代を中心に、伝統的な価値観への反発も強く、階級に縛られないライフスタイルを追求する動きも出てきている。インターネットやSNSの普及により、文化や情報が民主化され、これまで以上に多様な価値観が共有されるようになってきた。 また、環境問題やジェンダー平等など、従来の階級とは関係のない社会課題に対する活動を通じて、新たなリーダーシップ像が生まれてきている。とはいえ、依然として「Old Money」の影響力は強く、根本的な構造変化には時間がかかるだろう。 結論:イギリス社会における「成功」とは何か イギリスは、一見すると自由で開かれた社会に見えるが、その内側には長い歴史に裏打ちされた階級意識が厳然と存在している。「成金」が社会的に評価されにくいのは、単なる偏見ではなく、文化的・歴史的背景に根差した構造的な問題である。 真の成功とは、単に富を得ることではなく、「社会的に認められる」こと、すなわち文化、教養、伝統をも含む包括的な資産を持つことを意味する。イギリス社会における成功は、今もなお「階級」というフィルターを通して評価される。これは、現代においても変わらぬイギリスのもう一つの顔である。

イギリス富裕層の資産シフト:仮想通貨と株式への移行、その背景と未来展望

イギリスの富裕層が、これまで資産の中核を成していた不動産から、仮想通貨や株式などのより流動的で国際的な資産へと投資の軸を移しつつある。この動きは単なる一時的なトレンドではなく、税制改革、不動産市場の停滞、新たなテクノロジー投資機会など、複雑な要因が交差する中で加速している現象である。 1. 税制改革:富裕層を動かす最大の引き金 2024年にイギリス政府が実施した大規模な税制改革は、富裕層の資産戦略において大きな転換点となった。中でも注目されたのが「ノン・ドム(non-domiciled)」制度の廃止だ。これまで、この制度を利用することで、一定の条件下では海外所得や資産に課税されずに済んでいた富裕層が、今後は世界中の資産に対してイギリスの税制下で課税されることになる。 この改革によって、資産をイギリス国外へ移すだけでなく、そもそも居住地そのものを変える「タックス・エミグレーション(税制を回避するための移住)」が急増している。例えば、水道設備会社Pimlico Plumbersの創業者であるチャーリー・マリンズ氏や、移動式住宅帝国を築いたアルフィー・ベスト氏など、メディアでも広く知られた実業家たちがイギリスを離れた。 さらに、2025年4月にはキャピタルゲイン税(CGT)の税率が従来の18%から24%へと引き上げられることが決まり、これが資産移動をさらに促進する要因となっている。英財務省の統計によると、CGTの引き上げによる高額納税者の国外移住の影響で、2025年度のCGT収入は前年比で13.2%減少し、約13億ポンドの減収となった。 ノン・ドム制度とは? ノン・ドム制度は、居住国はイギリスだが本国(ドミサイル)が別にあるという人々に特別な税制優遇を認めるもので、18世紀に設けられた非常に古い制度だ。イギリスの歴代政府はこの制度によって、海外からの富裕層や投資家を誘致してきた。しかし、格差是正と財源確保の観点から廃止が決定された。 2. 不動産市場の停滞と資産配分の再考 税制の変化と同時に、イギリスの不動産市場—とりわけロンドンの高級不動産市場—も大きな転換点を迎えている。近年、ロンドンの「スーパー・プライム」と呼ばれる1000万ポンド以上の高級住宅市場では、価格が頭打ちになり、交渉の余地が広がっている。 これは複数の要因によるものである。まず、イングランド銀行(BoE)の利上げによって住宅ローン金利が高止まりし、不動産投資の利回りが低下している。また、ブレグジット後の政策変更により、非居住者に対する税制優遇が段階的に廃止されたことも影響している。 商業用不動産も例外ではない。調査会社CoStarのデータによれば、イギリス国内の商業不動産の市場価値は、2020年の1.114兆ポンドから2023年には9490億ポンドへと縮小した。この下落は、オフィス空室率の上昇や、コロナ禍以降のリモートワークの普及による構造的な需要減退が主因だ。 このような市場の見通し不透明感から、多くの富裕層は不動産への資産集中を避けるようになり、より流動性が高く、グローバルで分散可能な資産クラスへの転換を進めている。 3. 仮想通貨と株式:次世代の資産クラス 富裕層の中でも特に若年層—いわゆるミレニアル世代やZ世代—は、デジタル資産への関心が高まっている。Henley & Partnersの2024年の調査では、イギリス在住の若年富裕層の約71%が、何らかの形で仮想通貨へ投資していると報告された。これは、米国の富裕層における同様の割合(約56%)をも上回る数字だ。 仮想通貨に対する制度的支援 2025年には、改革党の党首ナイジェル・ファラージ氏が「仮想通貨革命」を公約に掲げ、ロンドンを仮想通貨のグローバルハブにする政策提案を打ち出した。これにより、政策的にもデジタル資産を取り巻く環境は整備されつつあり、投資対象としての正統性がさらに強化されている。 一方、伝統的な資産クラスである株式市場も依然として魅力的な投資先である。特にテクノロジー関連株やグリーンエネルギー関連企業は、グローバルなテーマに支えられて長期的な成長が見込まれている。 4. ポートフォリオ戦略の変化とリスクマネジメント 富裕層の資産戦略は、単に「どこに投資するか」ではなく、「どう分散し、どう守るか」に焦点が移ってきている。 仮想通貨は高いリターンが期待できる反面、その価格変動は極めて大きい。また、ハッキングや詐欺といったセキュリティリスクも無視できない。そのため、多くの富裕層は、仮想通貨と株式、さらに一部の不動産やコモディティ(金、アートなど)を組み合わせたハイブリッド型ポートフォリオを形成している。 信託や財団を活用した相続・贈与税対策も引き続き重視されている。Assured Private Wealth社のリポートでは、資産1億ポンド以上を保有するファミリーオフィスのうち、約82%が何らかの信託構造を導入していることが示された。 5. 今後の展望:イギリス経済と富裕層の「静かな離脱」 イギリス政府にとって、富裕層の資産流出は税収の減少だけでなく、消費、投資、雇用創出といった面でも長期的な損失を意味する。これまでロンドンは、ニューヨークやドバイ、シンガポールと並ぶ「グローバル・キャピタル」として富裕層を惹きつけてきたが、近年その立場に陰りが見え始めている。 一方で、金融技術(フィンテック)や仮想通貨といった新興分野では、イギリスは依然として高いポテンシャルを保持しており、政策次第では新たな投資の呼び水ともなりうる。問題は、既存の富裕層にどう魅力を維持しつつ、新しい世代の富裕層—特にテクノロジー志向の高い層—を惹きつけられるかにある。 結論:移行期のイギリス、資産戦略は進化の真っ只中 イギリスの富裕層が仮想通貨や株式へと資産を移行させている背景には、税制改革、不動産市場の変動、デジタル投資機会の拡大などが複雑に絡み合っている。これらの変化は、単なるトレンドではなく、イギリスという国家の経済構造そのものに影響を与える転換点である。 今後もこの資産の潮流を的確に読み解くことが、投資家にとっても政策立案者にとっても極めて重要となるだろう。

「ジュースより安いビール」から見える、ロンドンの物価高騰と生活感覚の揺らぎ

1. フレンチレストランでの気づき:ミントレモネードとビールの価格逆転 ある日、ロンドン市内のフレンチレストランにて、ちょっとした違和感に直面しました。息子が注文したのは爽やかなミントレモネード。私はというと、夕食のスタートに軽く楽しめるよう1パイント(約586ml)のビールを注文。会計の際、メニューを見返してみると、なんとジュースが6ポンド、ビールは7.5ポンド。 「え?ビールと1.5ポンドしか違わないの?しかもこのジュース、せいぜい250mlくらいじゃない?」 グラスを見れば、どう見ても小ぶりなサイズ。水で割られたような味にやや拍子抜けしつつ、「これは割に合わないな」と感じたわけです。一方のビールは香り豊かで、飲みごたえもしっかり。1パイント飲めば軽くほろ酔い気分。夕食を和やかに楽しむには、悪くない選択です。 このときふと、「今、イギリスではジュースよりビールの方が割安に感じる時代なのかもしれない」という奇妙な感覚に襲われました。そしてそれは単なる錯覚ではなく、現実に即した経済・社会の反映であると、改めて気づかされることになるのです。 2. なぜジュースはこんなに高い?その理由を探る ジュース1杯6ポンド。これは日本円に換算するとおよそ1,200円(※為替レートにもよる)。いくら外食とはいえ、驚きの値段です。しかし、これは特別な話ではありません。ロンドンのカフェやレストランでは、フレッシュジュースや自家製レモネードが5〜7ポンド程度で提供されることが少なくありません。 その理由を分解すると以下のようになります: つまり、単に「ジュースが高い」というより、「外食そのものが高くなっている」のです。 3. ビールが「安く感じる」心理的メカニズム 一方、ビールはというと、1パイント7.5ポンド。これも冷静に考えれば高いのですが、なぜかジュースと比べると「お得感」が出てしまう。これは単に量の違いだけでは説明がつきません。 以下のような心理的要因が絡んでいます: こうして「ジュースよりビールの方が割安感がある」という現象が、実際に消費行動に影響を及ぼすのです。 4. 健康という視点:ジュース vs. ビール 価格だけでなく、健康面から見ても興味深い対比が浮かび上がります。 ジュース: ビール: 結局のところ、「どちらが健康に良いか」は一概に言えませんが、同じく血糖値を上げるなら、ほろ酔い気分で楽しく食事をする方が精神衛生的にもいいというのは、実に理にかなった判断かもしれません。 5. 物価高騰の正体:なぜここまで上がったのか ここで改めて振り返りたいのが、そもそもなぜこんなにすべてが高く感じるのかという点です。イギリスの物価上昇は、もはや単なる「インフレ」では済まされない生活レベルの変化を引き起こしています。 主な原因: これらが複合的に絡み合い、飲食店における「ジュース一杯6ポンド」がもはや当たり前になりつつあるのです。 6. 物価がもたらす“感覚の変容”と対処法 「高いはずのビールが安く感じる」という話は、価格そのものというより、相対的な価値感の変容を映し出しています。 それは言い換えれば、私たちの「常識」が通用しなくなっているということ。500円のランチが当たり前だった感覚、100円の缶ジュースを高いと感じていた記憶。それらが、都市生活の変化とともに塗り替えられているのです。 対処法として考えられること: 7. 結論:「ビールを選ぶ」というささやかな戦略 夕食のひととき、私は1パイントのビールを手に取りました。たしかに7.5ポンドは安くはありません。でも、それで会話が弾み、食事がより美味しくなったのなら、それはコストパフォーマンスが高い選択だったと言えるのではないでしょうか。 ジュースより安く感じるビール。それは、イギリスの外食事情と物価高騰、そして私たちの価値観の変化を如実に物語っています。暮らしの中のささやかな「選択」から、経済の大きな流れが見えてくる。そんな今の時代、感覚を研ぎ澄ませながらも、時には心地よい酔いに身を任せることも、悪くないのかもしれません。

「歴史的」米英貿易協定の実態──華やかな発表の裏に潜む英国の課題と展望

2025年5月8日、世界が注目する中で、米国のドナルド・トランプ大統領と英国のキア・スターマー首相は、米英間の新たな貿易協定を発表した。この協定は「歴史的」と評され、ポスト・ブレグジット後の英国にとっては特に重要な国際的合意と受け止められている。だが、その内容を詳しく検討すると、両国の利益に大きな非対称性があることが浮き彫りになってくる。 本稿では、この米英貿易協定の全貌を明らかにし、産業別の影響分析、政治的評価、そして今後の展望について多角的に考察する。 背景:なぜいま米英貿易協定か? 英国は2020年のEU離脱以来、独自の貿易戦略を模索してきた。その中核にあるのが「グローバル・ブリテン」戦略であり、アメリカとの自由貿易協定(FTA)はその柱とされてきた。だが、ジョー・バイデン政権時代にはその進展は停滞。2024年の米大統領選でトランプ氏が再選されたことにより、交渉が急加速した。 一方のアメリカも、トランプ政権下では二国間主義を強調し、多国間協定よりも対等な交渉を重視する外交政策を展開している。その中で、米英関係の再強化はトランプ外交の成果と位置づけられている。 協定の主要内容とセクター別の影響 自動車産業:見かけほどの恩恵はない 今回の協定では、米国が英国製自動車に課していた27.5%の関税が10%まで引き下げられた。ただしこれは「年間10万台まで」という数量制限付きである。2024年の英国の対米自動車輸出台数が約9.2万台だったことを考えれば、実質的には現状維持とも言える。輸出台数が今後増加した場合、それ以上には高率関税がかかるため、業界の成長に制約が残る。 また、英国産のエンジンや一部の自動車部品については無関税が適用される見込みだが、サプライチェーンの再構築には時間がかかり、短期的な効果は限定的である。 鉄鋼・アルミニウム産業:関税撤廃は一筋の光 米国は英国からの鉄鋼とアルミニウムに対する25%の関税を撤廃した。これは、英国の伝統的な鉄鋼都市(例:ウェールズ南部やノーザン・イングランド)にとっては朗報である。特に、ポートタルボット製鉄所など雇用依存度の高い地域にとっては、直接的な救済となる。 しかし、世界的な鋼材需要の低迷や中国との価格競争を考慮すると、今回の関税撤廃がすぐに産業全体の回復をもたらすとは言いがたい。むしろ、国内の構造改革をいかに並行して進めるかが問われる。 農業:米国産品流入への懸念 協定の中で最も英国国内の批判が集中しているのが農業分野だ。英国は米国産牛肉の輸入枠を13,000トンまで拡大し、エタノールへの19%の関税も撤廃した。 英国の農業団体や消費者団体からは、「米国産牛肉は成長ホルモンの使用が容認されており、安全性や品質に懸念がある」との声があがっている。さらに、価格競争力で優れる米国産品の流入は、英国の中小農家に大きな打撃を与えると予想されている。 スターマー政権は「消費者の選択肢が広がる」と主張するが、その代償として国内農業の持続可能性が損なわれる懸念は払拭できない。 スターマー政権の政治的思惑と評価 スターマー首相は協定発表の記者会見で、「英国がグローバルな信頼を回復しつつある証だ」と語った。実際、協定締結は外交的な成果としてスターマー政権の「現実主義的アプローチ」を象徴している。 しかし、野党・保守党や一部の経済学者からは「譲歩の多い不均衡な協定」との批判もある。特に、以下の3点が問題視されている。 米英関係の変化と地政学的含意 この協定には、単なる経済面以上の地政学的な意味合いがある。ロシアのウクライナ侵攻、中国の経済的影響力拡大など、国際秩序が不安定化する中で、米英は「民主主義の価値を共有するパートナー」として連携を強化している。 経済協定を通じて安全保障面での協力をも深める意図があるともされ、NATOやAUKUS(米英豪の安全保障枠組み)との連携強化にもつながる動きと見る向きもある。 今後の課題と展望 今回の協定を通じて浮き彫りになったのは、「短期的な外交成果」と「中長期的な経済的利益」とのバランスの難しさである。スターマー政権は外交的には一定の成果を上げたが、国内産業保護や労働者の利益確保の面では疑問符がつく。 英国が今後も経済成長と社会的安定を両立させるには、以下のような課題に対処する必要がある。 結論:交渉の「成果」と「課題」の両面を見るべきとき 米英貿易協定は、国際社会における英国の存在感を再認識させる象徴的な合意であったことは間違いない。しかし、それが英国国民や産業にとって真に有益なものとなるかどうかは、今後の政策運用や補完策の実行にかかっている。 「歴史的」と呼ばれる協定の中身が真に歴史に残るものとなるか、それとも一過性の政治的演出に過ぎなかったのか──その評価は、これからの数年間のスターマー政権のかじ取りに委ねられている。

速報:イギリスここにきてインフレ率上昇

2025年4月、イギリスのインフレ率が3.5%に急上昇し、経済の先行きに対する懸念が高まっています。このインフレ率は、2024年1月以来の高水準であり、エネルギーや水道料金の値上げ、国民保険料の増加、最低賃金の引き上げなどが主な要因とされています。同時に、失業率の上昇や賃金の伸び悩みも見られ、家計への圧迫が強まっています。以下では、これらの要因を詳しく分析し、イギリス経済の現状と今後の見通しについて考察します。 インフレ率の急上昇とその背景 2025年4月の消費者物価指数(CPI)は前年同月比で3.5%上昇し、前月の2.6%から大幅に増加しました。この上昇は、エネルギー価格の6.4%の上昇や、水道・下水道料金の26.1%の急騰など、家庭の基本的な支出項目の値上げが主な要因です 。また、航空運賃や車両税の引き上げも影響しています。 政府の政策変更もインフレに寄与しています。2025年4月から、雇用主の国民保険料が15%に引き上げられ、最低賃金も6.7%増加しました 。これにより、企業のコストが増加し、価格転嫁が進んだと考えられます。 労働市場の変化と賃金の動向 労働市場では、失業率が2025年3月に4.5%に上昇し、2021年8月以来の高水準となりました 。また、求人件数も減少傾向にあり、2025年1月から3月の間に26,000件減少し、781,000件となっています 。これは、企業がコスト増加に対応するため、採用を控えていることを示唆しています。ONS Backup 賃金の面では、名目賃金は引き続き上昇していますが、その伸びは鈍化しています。2025年1月から3月の平均週給(ボーナス除く)は前年同期比で5.6%増加しましたが、前期の5.9%から減速しています 。実質賃金の伸びも限定的であり、家計の購買力は依然として圧迫されています。Reuters 政策対応と経済の見通し イングランド銀行は、インフレ抑制のために2025年5月に政策金利を4.25%に引き下げましたが、インフレ率の上昇により、さらなる利下げには慎重な姿勢を示しています 。また、政府は財政健全化を目指し、国民保険料の引き上げや最低賃金の増加などの政策を実施していますが、これらが企業のコスト増加を招き、経済成長の足かせとなる可能性があります。 経済学者の間では、インフレ率が2025年末までに3.7%程度でピークを迎え、その後は徐々に低下すると予想されています 。しかし、労働市場の弱さや家計の負担増加が経済成長を抑制するリスクも指摘されています。 家計への影響と生活の変化 インフレ率の上昇と賃金の伸び悩みにより、家計の実質購買力は低下しています。特に、低所得層や固定収入の高齢者にとって、生活必需品の価格上昇は大きな負担となっています。また、光熱費や水道料金の急騰により、生活費のやりくりが難しくなっている家庭も増加しています。 このような状況下で、家計は支出の見直しや節約を余儀なくされており、消費の抑制が経済全体の需要を減少させる可能性もあります。 結論:経済の安定化に向けた課題 イギリス経済は現在、インフレ率の上昇、労働市場の弱さ、賃金の伸び悩みといった複数の課題に直面しています。これらの要因が相互に影響し合い、家計や企業の経済活動に大きな影響を及ぼしています。今後、政府とイングランド銀行は、インフレ抑制と経済成長の両立を図るため、慎重な政策運営が求められます。 また、家計に対する支援策や企業のコスト負担軽減策の検討も必要です。経済の安定化には、政策の柔軟性と迅速な対応が不可欠であり、今後の動向に注視する必要があります。

イギリスの商店街衰退と郊外型ショッピングモール繁栄の背景と今後の展望

はじめに イギリスの街並みを象徴する存在であった「ハイ・ストリート(High Street)」──つまり、地域密着型の商店街──が、ここ数十年の間に急激な衰退を遂げている。かつては地元住民の生活の中心として賑わいを見せたこれらの商店街は、現在では空き店舗が目立ち、まるでゴーストタウンのような様相を呈している地域もある。その一方で、郊外に立地する大型ショッピングモールやオンラインショップの成長は著しく、消費者の購買行動は大きく変化した。本稿では、イギリスにおける商店街の衰退とその要因、そして今後の活性化策について、深く考察する。 商店街の衰退をもたらした要因 1. オンラインショッピングの急成長 インターネットの普及と技術革新により、オンラインショップは急速に成長を遂げた。AmazonやeBayなどの大手ECサイトが提供する利便性──24時間いつでも買い物ができ、価格比較も簡単、しかも自宅まで配送してくれる──は、従来の小売業に大きな打撃を与えた。特に若年層や多忙な労働者層にとっては、オンラインでの購買が日常化し、わざわざ商店街に足を運ぶ理由が薄れてしまった。 英国小売業協会(British Retail Consortium)の調査によれば、パンデミック以降にオンラインショッピングの割合は一時的に40%を超えるなど、その浸透率は極めて高い水準にある。 2. テナント料および固定費の上昇 都市部や人気の高い立地では、商業地のテナント料が高騰している。家賃に加えて高額なビジネスレート(Business Rates:日本の固定資産税に相当)も店舗経営者にとって大きな負担となる。大手チェーンであればまだしも、個人商店や家族経営の小規模店舗にとっては、これらの固定費を長期的に支払い続けることは困難であり、閉店を余儀なくされるケースが多い。 また、店舗の維持・改装にもコストがかかるため、老朽化が進んだまま手入れがされず、商店街全体の魅力が低下するという悪循環に陥っている。 3. 郊外型ショッピングモールの隆盛 自動車の普及と共に、郊外に設置された大型ショッピングモールが人気を集めてきた。イギリス国内では、ブルーウォーター(Bluewater)、ウェストフィールド(Westfield)などの巨大モールが代表的な存在である。これらの施設は、無料の駐車場、飲食店、映画館、さらには娯楽施設などを併設し、家族連れでも一日中楽しめるように設計されている。 消費者にとっては「一カ所でなんでも済ませられる」利便性があり、商店街よりも遥かに快適である。結果として、郊外型モールへの来店が増え、中心市街地の商店街から人が流出する現象が顕著となった。 4. 地方における過疎化と高齢化 イギリスの地方部では、若年層の都市部への流出が続いている。教育や雇用の機会を求めてロンドンやマンチェスターなどの大都市に移る人が増えたことで、地方の人口は減少し、高齢者の比率が高まっている。 高齢者は移動手段に制限があるため、頻繁に商店街まで足を運ぶのが難しい。また、高齢者だけが残る地域では購買力も限定されており、商店街の売上は伸び悩む。 商店街の衰退はイギリスだけの問題ではない 商店街の衰退は、イギリス固有の問題ではない。多くの先進国において、同様の傾向が確認されている。 つまり、テクノロジー、ライフスタイル、都市構造の変化により、商店街が持つ伝統的な機能が世界的に見直しを迫られているのである。 商店街再生に向けた取り組みと提案 では、イギリスの商店街はこのまま消滅の一途をたどるのか。必ずしもそうとは限らない。実際にいくつかの地域では、工夫と努力によって商店街が再び活気を取り戻している事例もある。 1. 地域密着型の魅力創出 地元の食材や工芸品、ユニークなカフェ、書店など、チェーン店にはない独自の魅力を打ち出すことで、来街者を惹きつけることができる。特にエシカル消費やローカル志向が高まる中で、「この街ならでは」の商品や体験が見直されつつある。 例えば、デボン州のトットネス(Totnes)では、地元産品とオーガニック製品に特化したマーケットが人気を呼び、観光客にも支持されている。 2. デジタルとの融合(オムニチャネル化) オンラインとオフラインの融合、いわゆるオムニチャネル戦略が鍵となる。店舗を持ちながら、SNSやウェブショップ、クリック&コレクト(Click & Collect)サービスを併用することで、より多くの顧客と接点を持つことができる。 商店街単位でポータルサイトを整備し、空き店舗情報や営業案内、イベント情報などを一元管理する仕組みも有効だ。 3. イベント・文化活動の導入 商店街を単なる「買い物の場所」から、「人が集う場所」へと転換させるためには、文化的・社会的イベントの導入が不可欠である。定期的なマルシェや音楽イベント、アート展示、子ども向けワークショップなどを開催することで、地元住民の参加を促し、街に活気を取り戻すことができる。 4. 交通アクセスと都市設計の見直し 高齢者や交通弱者にとってアクセスしやすい環境を整備することが重要だ。公共交通機関の充実、シャトルバスの運行、自転車道の整備など、移動の選択肢を広げる施策が求められる。 また、歩行者専用エリアの拡大やストリートファニチャー(ベンチ、街灯など)の整備によって、街歩きの楽しさを高める工夫も必要である。 5. 政策・補助金の活用 政府および自治体による支援も不可欠である。商店街再生のための補助金制度、起業支援、空き店舗のリノベーション資金援助など、多様な政策ツールが考えられる。 イギリス政府は2019年、Town Centre Fund(中心市街地活性化基金)を設立し、地方自治体に対する資金援助を開始している。このような施策を拡充し、持続可能な再生を支援する必要がある。 6. 新しいビジネスモデルの導入 単機能の小売店にこだわらず、複合的な空間設計を行うことが重要である。カフェ+ギャラリー、雑貨店+コワーキングスペースなど、複数の機能を持たせることで、多様な客層を呼び込むことが可能になる。 また、リモートワークの普及により、地方の商店街にも働く場としての可能性が広がっており、シェアオフィスやオンライン会議スペースなどの導入も有望である。 …
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「のうのう」とは言わせない!――変貌するイギリス労働観と“失職の危機感”

かつてのイギリス社会において、「のうのうと生きる」という言葉は、むしろ賛辞に近い響きを持っていた。昼下がりの紅茶、パブでの社交、ワークライフバランスの重視――それらは「豊かな生活」を象徴するものであり、過度な労働は“野蛮”とすら考えられていた。 だが、2020年代半ば、イギリスは静かに、だが確実に変貌している。 「働きすぎは美徳ではない」と言いながらも、多くの国民が“仕事を失うこと”への恐怖を感じている。「のうのう」とした気楽な生き方が、過去のものとなりつつあるのだ。 ■ 1. かつてのイギリス人は“怠惰”だったのか? そもそも、イギリス人は本当に「のうのう」と生きていたのだろうか? 「のうのう」とは、決して何もしていないという意味ではない。むしろ、「余暇を優先する」「過労を避ける」といった、労働と生活の間に明確な一線を引く生き方を指していた。 イギリスは産業革命の発祥地であり、19世紀以降、世界でもっとも労働者階級が酷使された国のひとつだった。その反動として20世紀後半以降、労働時間の短縮、週休2日制の普及、有給休暇の保障が進み、「働きすぎはよくない」という文化が根付いた。 特に中流階級以上においては、「仕事でストレスを溜めるより、趣味や旅行を楽しむこと」が一種のステータスとされた。国家全体としても、手厚い社会福祉と失業保険制度に支えられ、失職のリスクは「一時的な不便」にすぎなかったのである。 しかし、世界は変わった。 ■ 2. 崩れる安心――Brexitが開けた“パンドラの箱” 2016年のBrexit(イギリスのEU離脱)は、イギリス社会にとって“想定外の扉”だった。 EU市場との断絶は、企業にとって輸出入のコスト増加・人材確保の困難という形で直撃した。多くの多国籍企業は、本拠地をロンドンからアムステルダム、フランクフルトへと移し、結果として「職の安定神話」が揺らぎ始めた。 また、EU離脱は労働市場の流動性を低下させ、特に製造業やサービス業において、人手不足と賃金上昇の圧力が生じた一方で、雇用の不安定化が進んだ。経済の“断熱化”は、イギリス経済のグローバル競争力にも影を落とした。 ■ 3. パンデミックがもたらした“働き方の地殻変動” そして2020年、COVID-19パンデミックが世界を襲った。 ロックダウンと経済活動の停止により、イギリスのGDPは戦後最大の縮小を記録。多くの労働者が一時解雇や業務縮小を経験し、「職の不安定さ」が現実味を帯びることとなった。 しかし、パンデミックは“危機”であると同時に、“変化”でもあった。 リモートワークの急拡大、業務のデジタル化、クラウドベースのコラボレーションツールの普及により、「オフィスに通う必要性」が急速に薄れた。これにより一部の職種は劇的に効率化されたが、他方で“機械に置き換えられる”職種が浮き彫りになった。 「この仕事、本当に人間がやるべきなのか?」 こうした問いが、皮肉屋のイギリス人にも突き刺さった。 ■ 4. AIの衝撃:「ジョン」ではなく「ChatGPT」 2022年以降、生成AIの台頭は、労働市場にとって“最大の黒船”となった。 ChatGPTに代表されるAIツールは、単なる文書作成や翻訳を超え、法的助言、プログラミング、医療相談、教育指導、さらにはクリエイティブ業務にまで踏み込んでいる。 最初は「面白いおもちゃ」として受け入れられていたAIも、次第に「自分の仕事を脅かす存在」へと見なされるようになった。 とりわけイギリスでは、以下の職種が高い“代替可能性”を指摘されている。 従来、「安定職」とされてきたホワイトカラーの職も、AIによる脅威に晒されているのだ。 ■ 5. Z世代の“ワーク・アンザイエティ”と自己防衛 こうした情勢の中、最も大きな変化を見せているのがZ世代(1997年以降に生まれた世代)である。 かつての若者が「自由」「冒険」「クリエイティブな生き方」を追い求めていたのに対し、現在のZ世代は「安定」「保証」「リスクヘッジ」に重点を置いている。 実際、英Guardian紙の2024年の調査によれば、Z世代の62%が「今後10年以内に職を失う不安を感じている」と回答。副業・スキルアップ・資格取得といった“自己防衛的行動”が広まり、「履歴書映え」するキャリア構築が重視されている。 就職活動も、単なる職種や企業名だけでなく、以下のような視点が加味されている。 SNSでは #JobSecurity や #Upskill がトレンドとなり、かつては笑われていた“キャリア不安”が、もはや社会の共通言語になった。 ■ 6. LinkedInに群がる中年たち——中高年層の意識改革 変化は若者だけではない。 かつては「俺はこのまま定年まで働ける」と信じていた50代の中年層も、LinkedInでプロフィールを更新し、CVの書き直しやオンライン講座に勤しんでいる。 イギリスでは政府主導で「スキルアップ・リスキルプログラム(職業再訓練)」が推進され、テクノロジー系・医療系・教育系への転職支援が強化されている。大学を再び訪れる中年も珍しくなくなった。 ■ 7. “のうのうイギリス人”の終焉と新しい国民性 …
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AIの恩恵と矛盾:イギリス人が抱えるジレンマ

はじめに 人工知能(AI)は、21世紀における技術革新の中でも最も注目されている分野の一つである。AIは、医療、金融、教育、製造業、エンターテインメントなど、多岐にわたる分野で応用されており、私たちの生活を便利で効率的なものに変えつつある。しかし、イギリスを含む先進諸国では、AIに対する楽観的な期待と、懸念という二つの感情が複雑に絡み合っている。 特にイギリスでは、「AIは生活を豊かにする技術である」という期待と同時に、「人間の仕事を奪う存在になりうる」という不安が根強く存在している。その結果、AIを積極的に導入すべきか、それとも慎重に取り扱うべきかという判断を下しかねている人が多く存在する。このジレンマは、技術的進歩の恩恵をどう受け入れるかという社会的・倫理的課題を浮き彫りにしている。 AIの進展とイギリス社会への影響 AIは、単なる自動化ツールを超えて、人間の知的作業を模倣・代替できる段階に近づいている。チャットボットや自動翻訳、画像認識、そして創造的な文章の生成まで、AIの能力は急速に向上しており、イギリスの企業や行政機関もその導入を進めている。 たとえば、イギリスの国民保健サービス(NHS)は、AIによる診断補助システムの導入を進めており、医療の効率化と精度の向上が期待されている。また、金融機関では、AIを使った信用評価やリスク管理が普及している。こうした動きは、社会全体の効率化に貢献しているが、その一方で、「AIによって自分の仕事が奪われるのではないか」という労働者の不安も増している。 便利さの裏にある矛盾 AIは、人間の生活をより快適にすることを目的に開発された。しかし、その便利さが労働の代替という形で現れたとき、社会には深刻な矛盾が生じる。 イギリスの一般市民の間では、次のような声がよく聞かれる: これらの声に共通しているのは、「技術の進歩が人間の存在価値を脅かすのではないか」という感覚である。イギリス人は、産業革命の歴史を通じて、技術が雇用に与える影響を深く理解しており、その経験がAIに対する慎重な姿勢につながっている。 世論の二極化 イギリス国内では、AIに対する意見が大きく二極化している。ある世論調査によれば、約半数の人々が「AIは社会をより良い方向に導く」と回答している一方で、残りの半数は「AIによって雇用が不安定になる」「格差が広がる」と懸念を示している。 この二極化は、主に次のような要因に起因している: イギリス人の価値観とAI倫理 イギリス人は一般的に「公正さ」や「倫理」を重視する傾向が強い。AIの導入に対しても、単なる技術的な有用性だけでなく、「社会全体にとってそれが正しいことかどうか」という視点が問われる。 たとえば、AIによる雇用削減が進む中で、「失業した人々に対するサポートはどうあるべきか」「AIの恩恵をすべての人が公平に享受できるようにすべきではないか」という議論が盛んに行われている。また、AIの判断におけるバイアスの問題や、プライバシー保護に対する懸念も根強い。 イギリス政府もこうした価値観を反映し、AI倫理に関するガイドラインや規制の整備を進めている。たとえば、「AI倫理委員会」では、AIの利用における透明性、公正性、説明責任を確保するための枠組みを議論している。 実際の事例:AI導入の光と影 イギリスの小売業大手「テスコ」では、AIを活用して在庫管理や需要予測の精度を向上させている。その結果、業務の効率化が進み、食品ロスの削減にもつながっている。一方で、一部店舗では従業員の配置が見直され、パートタイムスタッフの削減が行われた。 また、ロンドン交通局(TfL)は、AIを用いて交通量の予測や運行スケジュールの最適化を実現し、混雑の緩和に成功している。しかし、このプロセスでも一部の業務が自動化され、従来のオペレーター職の需要が減少している。 これらの事例は、AI導入によって得られる社会的メリットと、失われる人的資源との間にあるトレードオフを象徴している。 未来に向けた道筋 イギリスがAIを受け入れるかどうかの判断は、単に技術的な進展だけでなく、政治、経済、教育、そして文化的背景を含めた総合的な議論を必要とする。今後の方向性として、次のようなアプローチが求められている。 結論 AIは、現代社会に多大な利便性と可能性をもたらす一方で、人間の雇用や尊厳に対する深刻な挑戦でもある。イギリスにおいては、この技術を全面的に受け入れるか否かという単純な選択ではなく、いかにして人間中心の技術利用を実現するかという視点が重要である。 イギリス人が抱える「便利さ」と「不安」のジレンマは、現代社会が直面する最も根本的な問いを反映している。すなわち、「技術は人間のためにあるべきか、それとも社会構造の効率性のためにあるべきか」という問いである。その答えを導き出すには、技術者、政策立案者、そして市民一人ひとりの対話と共通理解が不可欠である。

経済大国の移民政策転換──鎖国への回帰か、それとも次なる国家戦略か

序章:英国の移民政策が投げかける波紋 2024年末、英国政府は新たな移民政策を発表した。EU離脱(ブレグジット)以降、すでに移民への規制を強めてきた同国が、さらなる強硬策を講じたことは、英国内外で大きな議論を呼んでいる。新政策では、就労ビザの取得条件が引き上げられ、家族帯同の制限も強化された。背景にあるのは、国内の社会保障圧力、治安への懸念、そして政治的ポピュリズムの高まりだ。 しかし、英国の動きは孤立した現象ではない。フランス、ドイツ、米国、カナダ、さらには移民を受け入れて経済成長を牽引してきたオーストラリアやニュージーランドにおいても、移民政策の見直しが急ピッチで進められている。果たして、いま世界の経済大国は「現代版の鎖国」へと向かっているのか? 本稿では、移民政策の歴史的変遷、現代社会の課題、そして移民縮小による「安価な労働力喪失」のリスクと、その回避策について多角的に分析する。 第1章:なぜ今、移民抑制なのか──ポピュリズムと社会的受容の限界 移民に対する規制強化の背景には、ポピュリズムの台頭がある。英国のブレグジット、トランプ政権下の米国、スウェーデン民主党の躍進など、多くの国で「外国人嫌悪(ゼノフォビア)」が政治的エネルギーとして活用されてきた。これは単なる感情論ではない。高齢化、格差拡大、住宅問題、社会保障制度の持続可能性といった国内問題が「移民のせい」にされやすくなっているのだ。 特にパンデミック後の経済回復過程において、政府は自国民の雇用確保を最優先事項とし、移民労働者に対する需要よりも、社会的圧力に応える政策を取る傾向が強まっている。 第2章:移民=経済成長エンジンという定説の再検証 1970年代以降、多くの先進国が移民を「労働力不足の補填」として受け入れてきた。実際、建設業、農業、介護、飲食、IT業界などにおいて移民労働者は不可欠な存在であり、彼らの存在が経済成長を下支えしていたのは紛れもない事実だ。 しかし近年、その「経済エンジン」としての移民モデルが揺らいでいる。理由は以下の3点に集約される: このような背景から、政府や国民が「安価な労働力としての移民」モデルの持続可能性に疑問を抱き始めている。 第3章:移民縮小による経済リスクとは何か? 移民を減らせば当然ながら、以下のようなリスクが発生する: 実際、イギリスではEU離脱後に物流業界でドライバー不足が深刻化し、燃料や食品供給に支障が出た。また、ドイツでは介護職の人手不足により高齢者施設の受け入れ停止が発生している。 第4章:このリスクにどう対応するか──代替戦略とその限界 移民削減によるリスクを回避するため、各国が取っている(または検討している)戦略は以下の通りである。 1. 自国民の労働参加率向上 高齢者や女性の労働参加を促す政策が進められている。保育支援や高齢者の就業支援によって潜在的労働力を掘り起こそうという試みだ。 限界点:賃金や労働環境の問題が解決されなければ、魅力的な職場とはならず人材は集まらない。 2. 自動化・ロボット技術の導入 日本では介護ロボット、欧州ではスマート農業の推進が進められている。テクノロジーが人手不足をカバーするという発想だ。 限界点:導入コストが高く、即時的な解決にはならない。中小企業や地方では資金力の問題もある。 3. 短期・季節労働者の活用 長期的な移民ではなく、一定期間のみ就労するビザ制度(例:アメリカのH-2Aビザ)の活用が進んでいる。 限界点:短期労働者の住環境や労働条件をどう保障するかが課題。また、社会統合への影響は残る。 第5章:移民政策の未来──“選別型開国”という選択肢 完全な鎖国は現実的ではない。そこで注目されているのが「選別型開国(selective openness)」だ。これは、国家が経済的・社会的ニーズに応じて、特定のスキルや国籍を持つ移民を優遇する制度である。 例えばカナダは、「エクスプレス・エントリー」というポイント制度で高度人材を効率的に受け入れている。オーストラリアやドイツも同様のスキル選別モデルを導入済みだ。 しかしこのモデルは、倫理的な議論を呼ぶ。「高度人材だけを受け入れるのは、国家による人間の選別ではないか?」という問題である。また、移民元の国にとっては「頭脳流出(brain drain)」のリスクが残る。 結論:真の課題は“人間”の取り扱い方 世界が「移民制限」という方向に舵を切っているのは事実だが、それは必ずしも閉鎖性や排外主義の表れではない。むしろ、これまで経済合理性のもとに行われてきた「移民政策」が、社会統合・倫理・文化という視点から再検証されている過程とも言える。 各国に求められるのは、単なる労働力としての移民政策ではなく、人間としての移民をどう受け入れ、共生していくかという中長期的なビジョンだ。鎖国と開国の間で揺れる政策の舵取りの先にあるのは、果たして持続可能な社会か、それとも孤立と分断か──その岐路に我々は立っている。