「警察は正しい」で終わらせてよいのか オーストラリアの礼拝者排除とイスラムへの偏見

礼拝中でも、警察の指示には従うべきだ。公共の場を、宗教を理由に占有してよいはずがない。警察を支持する論理は、こう整理できる。秩序を重視する人にとっては、分かりやすい主張だろう。では、警察が移動を命じたというだけで、その指示も、排除の方法も、すべて正当になるのだろうか。

2026年2月9日、シドニーでイスラエル大統領の訪問に反対する集会が開かれ、礼拝中のイスラム教徒が警察に強制的に移動させられた。警察側は、現場で一部の参加者が攻撃的な行動を取り、群衆を解散させる必要があったと説明した。一方、祈っていた人々への力の行使には、宗教団体や人権機関から批判が上がった。ABC News

この件について、警察支持が世界全体の多数派だと示す代表的な世論調査は確認できない。SNSのコメント欄で支持する声が目立つことと、社会全体の賛否の割合は分けて考える必要がある。ただ、仮に多数派が支持していたとしても、それによって警察の行為が適法になるわけではない。

警察には、法律上の条件を満たす場合に人々へ移動を命じる権限がある。宗教的な行為にも、安全確保のための制限が必要になる場面はあり得る。しかし、移動を命じる根拠と、その実行にどれだけの力を使えるかは、それぞれ確かめなければならない。 ニューサウスウェールズ州の法律も、警察の権限行使に伴う力の使用を、合理的に必要な範囲としている。legislation.nsw.gov.au

今回、見落としてはならないのは、警察自身が後になって認めた事実だ。幹部警察官は、問題のグループに礼拝を続けることを認めていたという。警察の説明では、その判断が現場の警察官に伝わる前に、一部の礼拝者が移動させられた。ABC News

また、反イスラム差別対策特使アフタブ・マリク氏は、礼拝者はタウンホール前の広場におり、車道や歩道を塞いでいなかったと説明している。場所や通行への影響について、この説明も検証に含める必要がある。道路を占拠していたという前提だけで排除を正当化すると、実際の現場から議論が離れてしまう。Special Envoy to Combat Islamophobia

問われるのは、礼拝していた人々に移動を命じる具体的な根拠があったのか、その時点でどんな危険があったのか、そして身体をつかんで動かすことが必要だったのかという点だ。集会の別の場所で衝突が起きていたとしても、それだけで一人ひとりへの対応の妥当性まで説明できるわけではない。

オーストラリア人権委員会も、集会の一部の人が問題行動を起こした場合には、通常、疑われる行為に対して個別に対応すべきだと指摘した。平和的な参加者の安全は守られるべきであり、実力行使は例外的な状況での最後の手段であるべきだという立場を示している。humanrights.gov.au

そして、この議論にはもう一つの問いがある。排除された人々がイスラム教徒であることによって、私たちはその行動を必要以上に疑っていないだろうか。 礼拝している姿を見ただけで、挑発している、社会のルールに従う気がない、危険な集団だと決めつけてしまえば、個々の行動を確かめる前に結論が決まってしまう。

実際に、この映像には、礼拝者が銃撃事件の犠牲者を追悼する展示の前で祈り、警察を挑発したという誤った説明が付けられた。AFPの検証では、映像に写っていたのは植栽用のプランターで、その場所に追悼展示は確認されなかった。factcheck.afp.com

この誤情報がなぜ一人ひとりに信じられたかまでは断定できない。ただ、祈る姿に、裏付けのない悪意を付け足すことで、排除を当然の対応に見せる説明が作られていたことは分かる。イスラム教徒が何をしたのかを調べる前に、イスラム教徒なら何か悪いことをしたのだろうと考える。その順序の逆転に、偏見が入り込む余地がある。

礼拝への理解を考えるうえで、気になる発言も報じられた。ABCが10月20日に伝えた法廷提出映像には、排除に先立ち、女性警察官が「祈る時間は一日中あった」という趣旨の発言をする場面が含まれていたという。ABC News

イスラム教の礼拝は、一日の決まった時間帯に行われる。この発言だけで警察官に差別的な意図があったと断定することはできないが、当事者にとっての日没の礼拝の意味が、現場で十分に理解されていたのかという疑問は残る。いつでも済ませられる行為だという受け止め方が、対応に影響していなかったかは検証に値する。factcheck.afp.com

もちろん、秩序維持や宗教にかかわらないルールの適用を重視して、警察を支持する意見はあり得る。その議論をするなら、礼拝者の宗教に左右されず、同じ事実と同じ基準で判断することが必要になる。警察を批判する側にも、礼拝中ならどんな状況でも移動させてはならないと、現場の危険を無視することはできない。

一つ、仮定として考えてみたい。同じ場所で、キリスト教徒がひざまずいて祈り、同じ方法で警察に移動させられていたら、自分は同じ反応をしただろうか。危険性も通行への影響も同じなのに、宗教が変わると判断も変わるのであれば、その違いには向き合う必要がある。

世の中はいまだに、イスラムを悪だと思い込んでいるのか。この一件やSNSの反応だけで、社会全体をそう決めつけることはできない。しかし、イスラムという言葉だけで警戒し、祈る人々にも悪意があるはずだと想像し、強制的に排除される姿に疑問を持たなくなる。そのような先入観が判断に混ざっていないかは、問い続けるべきだ。

当日の警察活動については、独立監督機関LECCが調査を進め、10月19日に始まった審理でも礼拝者への対応が検証対象とされた。審理開始時点では、まだ認定や結論は出されていない。www.abc.net.au

排除を支持するのであれば、彼らが具体的に何をし、どんな危険があり、なぜその方法が必要だったのかを説明する必要がある。宗教への好感や反感によって、その確認を省いてはならない。「警察は正しい」という結論にたどり着く前に、「イスラムは悪」という先入観が答えを決めていないかを、私たちは自分自身に問いかける必要がある。

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