近年、イギリスをはじめとする多くの国で「私たちはなぜ動物を食べるのか?」という疑問が、従来以上に強く問われるようになっています。この問いの背後には、動物福祉、気候変動、健康、そして技術の進歩という複雑に絡み合ったテーマがありますが、根本には「自然とは何か?」という哲学的な視点が存在しています。 動物はもともと自然界に存在する生命体であり、人間のために「存在している」のではありません。しかし現代社会では、その事実が往々にして見過ごされているのではないでしょうか。私たちは動物を家畜として交配させ、閉鎖空間で育て、最終的には殺して食べるというサイクルに慣れすぎてしまったのかもしれません。 今回は、イギリス人の間でも拡がりつつある「家畜制度の倫理性への疑問」から出発し、現代の畜産とクローン技術、そして私たちがどう「自然」と向き合うべきかについて考察していきます。 自然界の摂理と人間の介入 人類が動物を食用として利用してきた歴史は長く、狩猟採集時代から家畜化への移行によって、食料確保は飛躍的に安定しました。牛、豚、鶏といった種は、いまや完全に人間の管理下にあります。 しかし、この「管理」という行為が、果たして自然なものなのでしょうか? 自然界において動物たちは、自らの意志と本能に従って生き、死んでいきます。肉食動物が草食動物を狩るのもまた、生態系の一部としてバランスを保つための自然の営みです。一方、人間が行う畜産は、動物の自由を奪い、意図的に繁殖させ、人工的な環境で育て、予定されたとおりに命を奪うという一連のプロセスを含んでいます。 これは本当に「自然な営み」と言えるのでしょうか? イギリスでは、動物福祉への意識が比較的高く、ビーガンやベジタリアンの人口も年々増加しています。多くの人が、「動物のため」に肉を食べないという選択をするようになってきました。 家畜制度というシステム 畜産業は、技術の進歩によって大規模化され、効率化されてきました。人工授精、ホルモン投与、遺伝的選択などによって、より多くの肉を、より早く生産する仕組みが整っています。しかし、その裏では、飼育密度の高さ、ストレス環境、短命な生涯など、動物にとっては苦しみに満ちた現実があります。 このようなシステムは、倫理的に正当化できるのでしょうか? そして、この家畜制度の存在を当然視しながら、私たちはクローン技術やDNA操作については「不自然」「怖い」「倫理的に問題がある」と反応する傾向にあります。それは一体、なぜなのでしょう? クローン動物と倫理の境界 ここ数年、イギリスや欧州ではクローン技術によって生まれた家畜が食料として使われることに対して、強い反発の声が上がっています。 「自然界の摂理に反している」「人間の傲慢さの象徴だ」「倫理的に受け入れられない」 このような意見はごもっともです。しかし、冷静に考えてみましょう。そもそも私たちはすでに、動物の「自然な」誕生や生活に大きく介入しているのではないでしょうか?むしろ、現在の畜産業そのものが「クローン技術のような人工性」に満ちているのです。 たとえば、肉牛の多くは品種改良を重ねて筋肉質な体型になるように育種され、自然交配ではなく人工授精によって繁殖しています。自然界ではこのような交配は起こりえません。つまり、動物の体や繁殖すらも、人間の都合で設計されているのです。 それならば、クローン技術と現在の畜産との違いは、技術的な段階の差だけであり、本質的には大きな違いがあるとは言えないのではないでしょうか? 「自然」であることの幻想 「自然だから正しい」「人工だから危険だ」という単純な二項対立では、現代の倫理問題を語ることはできません。 私たちは「自然」と聞くと、どこか神聖で、手つかずの美しさを思い描きがちです。しかし現実には、自然もまた、苦しみや競争、死を伴うものです。そして、人間社会における「自然」という言葉は、往々にして道徳的な正当化の道具として使われてきました。 たとえば、「肉を食べるのは自然なことだから問題ない」と主張する人もいます。しかし、その「自然さ」は、現代の工業的畜産の実態とはかけ離れた幻想ではないでしょうか? むしろ、動物を尊重し、その苦しみを減らそうとする試みこそが、自然との調和を求める真の倫理ではないでしょうか。 人間中心主義からの脱却 イギリスでは、動物を「感じる存在(sentient beings)」として法的に認める動きが加速しています。この法的認識は、動物を単なる「所有物」や「商品」とする扱いから脱却し、彼らの苦しみや快楽を考慮に入れた新しい倫理の枠組みを求める声でもあります。 その流れのなかで、クローン技術への嫌悪感もまた、単なる技術への反発ではなく、「これ以上、動物を物のように扱ってよいのか?」という深い問いから発せられています。 しかし、皮肉なことに、クローン技術に対して拒否反応を示しながら、現在の畜産制度を当然視してしまうことは、やはり矛盾をはらんでいるのです。 これからの選択肢 今後、私たちができる選択肢は多様化しています。 重要なのは、自分の選択がどのような影響を動物や環境、そして未来の世代に与えるかを意識することです。 終わりに:クローンに怯える前に 「DNA操作して動物を複製するなんて、自然に反している」 そのように感じるのは当然の感覚です。しかしその感覚を、今一度問い直してみましょう。果たして、私たちは今までどれほど自然に忠実に生きてきたのでしょうか?そして、今私たちが享受している「当たり前」は、どれほど動物の自由や自然の理に反してきたのでしょうか? クローン技術の倫理性を問うことは重要です。しかしそれは同時に、私たちが長年当然視してきた畜産の仕組みそのものを問い直す機会にもなり得ます。 動物は自然から生まれた命です。その命をどう扱うのか――その答えは、私たち一人ひとりの選択の中にあります。
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イギリス人は潔癖症が多い?街の汚さとOCDのリアルな関係
「イギリス人は潔癖症が多い」という話を聞いたことがある方は少なくないかもしれません。特に精神疾患としての強迫性障害(OCD:Obsessive Compulsive Disorder)に悩む人が多いという指摘は、心理学的にも、そして社会的にも一定の根拠があります。 しかしながら、一歩イギリスの街に足を踏み入れてみれば、話は少し違って見えてきます。通りにはゴミが落ち、家に上がるときも土足が当たり前。日本的な感覚からすると「潔癖」とは真逆ともいえる日常風景が広がっています。 では、なぜイギリスでは「潔癖症」やOCDに悩む人が多いと言われるのか?そして、なぜその一方で、生活環境には「清潔感がない」と感じられる場面が多いのか?その背景には、文化的・社会的・心理的な複合的要因が隠されています。 そもそも潔癖症とOCDの違いとは? まず最初に、一般的に言われる「潔癖症」と医学的な「OCD(強迫性障害)」は別物であるという点を明確にしておく必要があります。 つまり、「イギリス人に潔癖症が多い」という言い回しは、実際には「OCDに悩む人が多い」という事実と混同されている場合があります。 イギリスでOCDが多いと言われる理由 1. メンタルヘルスへの意識が高い イギリスでは、メンタルヘルスについての啓発が比較的進んでいます。NHS(国民保健サービス)をはじめ、公的・民間のメンタルヘルス機関が多数存在し、自身の心理状態を「ラベリング」することに対して抵抗が少ない文化があります。 そのため、日本に比べてOCDを自覚・診断されやすく、結果として「OCDの人が多い」という印象につながっているとも言えるでしょう。 2. 社会的ストレスの多さ 特にロンドンなど都市部では、住宅価格の高騰や移民問題、生活費の高騰など、日常的なストレスが非常に大きく、それが心理的な不安や強迫観念を引き起こす要因になることがあります。 また、教育水準が高く、完璧主義的傾向を持つ人が多いという調査もあり、これがOCDの発症率に影響している可能性があります。 3. 富裕層に多いという実態 意外かもしれませんが、OCDは富裕層に多いとされる傾向があります。これは、リソース(時間・金銭・空間)があるからこそ、「理想的な環境」や「完璧な清潔さ」を追い求める心理が生まれやすいからだと考えられています。 また、裕福な家庭では小さい頃から「規律」や「美徳」として「清潔さ」や「几帳面さ」が強調されることが多く、それが強迫的な行動へとエスカレートするケースも報告されています。 その一方で…イギリスの通りはなぜあんなに汚いのか? OCDが多い国でありながら、なぜイギリスの街は「清潔」とは言いがたいのか?これは非常に興味深い逆説的な現象です。 1. 清掃制度の不完全さ イギリスの街中を歩いていると、ゴミ箱が少なく、落ち葉や空き缶が散乱しているのを目にすることが少なくありません。特に冬場や週末になると、市の清掃サービスが間に合わないことも多く、「ごみがあるのが普通」という風景が出来上がってしまっています。 2. プライベートとパブリックの区別 イギリスでは「自分のテリトリーは徹底的に管理するが、それ以外はどうでもいい」という感覚が根強い傾向があります。つまり、家の中はきれいにしても、通りや駅など公共の場には無頓着な人が多いのです。 これは裏を返せば、個人主義的文化の一端とも言えます。公共空間への責任感が薄いというわけではなく、「自分の領域ではないから干渉しない」という考え方なのです。 3. 土足文化が与える印象 さらに日本人の感覚からすると「不潔」に感じやすいのが、家の中でも土足で生活する文化です。実際、イギリスの多くの家庭では、今でも家の中で靴を履いたまま生活するのが一般的。もちろん最近は靴を脱ぐ習慣が広まりつつありますが、それでも土足文化は根強く残っています。 これにより、特にアジア圏の人からは「潔癖とはほど遠い」という印象を持たれやすいのです。 「潔癖」は見た目ではわからない このように、街が汚れているからといって、その国の人々が「潔癖でない」とは言い切れないのが現実です。 OCDの症状は多種多様で、手洗いや掃除だけに限定されるものではありません。たとえば「物の配置が狂うのが許せない」「ドアを何度も確認しないと安心できない」「数字や言葉に対するこだわりが強い」といった、他人から見れば気づきにくい形で現れることが多いのです。 また、潔癖的な傾向を持っているからといって、外の世界すべてにそれを当てはめられるわけではありません。むしろ、外の「汚さ」や「無秩序さ」に過敏に反応することで、より強く苦しめられている人が多いとも言えるのです。 日本との比較:清潔感とメンタルヘルスの距離 日本は、見た目の清潔さにおいては世界的にも高評価を受けています。駅もトイレもきれいで、路上にごみを見かけることはほとんどありません。その一方で、メンタルヘルスに対する理解やオープンさにはまだ課題が多く、OCDなどの精神疾患についても「気の持ちよう」と片付けられてしまうケースが少なくありません。 この点、イギリスは街並みの清潔さという面では劣るかもしれませんが、メンタルヘルスに対しては非常に開かれている国と言えるでしょう。 まとめ:イギリス人は「心の中」に潔癖を抱えている イギリスにおけるOCDの多さと、街の清潔さや生活様式とのギャップは、文化や心理、社会的背景が複雑に絡み合った結果として存在しています。 一見すると矛盾に満ちた状況ですが、それこそが現代のイギリス社会のリアルな姿でもあります。潔癖とは、表面的なきれいさではなく、「心の中の不安」によって形づくられるものなのです。
イギリス人が考える平和とは?― 日本人との違いと“敗戦を知らない国民”の視点から考える
はじめに:平和はどこから来て、誰が守るのか? 現代に生きる私たちが「平和」と聞いたとき、何を思い浮かべるでしょうか?穏やかな日常。戦争のない世界。豊かな経済。自由な発言や思想。しかし、こうした「平和」の定義は、国や文化、そして歴史によって大きく異なる場合があります。 とりわけ、日本とイギリス。この二国は第二次世界大戦を巡って“敵同士”だった歴史を持ちますが、戦後80年近く経った今では、互いに友好関係を築き、国際社会の中で「平和国家」としての地位を確立しています。 では、「イギリス人が考える平和」と「日本人が考える平和」は同じものなのでしょうか?また、「敗戦を経験していない国民」が考える平和とは、一体どのようなものなのでしょうか? 今回は、こうした疑問に答える形で、イギリス人の「平和観」を探りつつ、日本との比較や歴史的背景を交えて考察していきたいと思います。 第1章:イギリス人にとっての「平和」とは? 1-1 歴史と共に歩む国の視点 イギリスは、長い歴史の中で世界をリードする大英帝国を築きました。アフリカ、アジア、オセアニア、カリブなど多くの地域を植民地として支配し、常に国際政治の中心にありました。イギリス人にとって、「国を守る」「影響力を持つ」「秩序を維持する」といったことは、単なる防衛ではなく「平和を作る」行為として認識されてきました。 つまり、彼らにとっての平和とは「力の均衡の上に成り立つもの」なのです。 これは、冷戦期にイギリスがアメリカと共にNATOの中核を担い、核兵器を保持し続けた事実にも表れています。平和とは、話し合いや理想主義によって得られるものではなく、時に「戦う意思を見せることで維持される」ものという考えが根底にあるのです。 1-2 “戦争の記憶”と“勝者の記憶” 第二次世界大戦において、イギリスはナチス・ドイツの空襲に晒され、多大な被害を受けましたが、「敗戦」は経験していません。それどころか、チャーチル首相のもと、連合国の勝利の立役者として名を馳せ、「自由と民主主義の守護者」という自負を育んできました。 この「勝者の記憶」は、戦争に対する意識にも影響しています。イギリスでは、毎年11月に「リメンブランス・デー(追悼の日)」があり、戦争で亡くなった兵士たちに哀悼の意を表します。しかしそこには「戦争の悲惨さ」に加えて、「祖国のために戦った誇り」も含まれています。 つまり、「平和」は「過去の犠牲の上に成り立つ、努力の成果」という意識が強くあるのです。 第2章:日本人にとっての「平和」とは? 2-1 「戦争は悪」という絶対的価値観 日本は、第二次世界大戦で敗戦国となり、東京大空襲、広島・長崎の原爆など、圧倒的な被害を受けました。その後、アメリカの占領下で非軍事化が進み、憲法第9条によって「戦争の放棄」「戦力の不保持」が明記されます。 この歴史的背景が、日本人の平和観に大きな影響を与えました。 「戦争は絶対悪」「平和とは、戦わないこと」という意識が強く、戦争や軍事行動に対して極端に敏感になったのです。そのため、自衛隊の海外派遣や、防衛費の増額といった話題にも、常に議論が巻き起こります。 2-2 「加害と被害」の記憶 日本は同時に、アジア諸国に対して加害者でもありました。しかし、国内ではその側面よりも「被害者としての日本」が強調されがちです。これは、「戦争を繰り返さないためには、二度と軍事に関わらないことが必要」という意識をさらに強固にしてきました。 つまり、日本における「平和」は、反省と赦し、そして徹底的な非武装の上に築かれた「静的な平和観」と言えるかもしれません。 第3章:「敗戦を知らない国民」の平和とは? イギリスのように、近代において国土が占領されず、「敗戦」を経験していない国民は、自国の力を信じ、必要であれば「武力による平和の確保」も容認する傾向があります。 例えば、アメリカやフランス、イギリスなどの旧列強国家は、軍事力の保持と行使を「国際的責任」として位置づけることが多く、「平和のための介入」という論理をよく使います。 イギリス人にとって、軍人とは「英雄」であり、「国家のために働く誇り高き職業」です。これは日本のように「軍人=戦争の象徴」という見方とは根本的に異なります。 第4章:二つの平和観のすれ違いと交差点 4-1 理想と現実のはざまで 日本の「平和を守るには戦わないことが重要」という理想主義的な視点と、イギリスの「平和を維持するには時に戦う覚悟が必要」という現実主義的な視点。この二つは、しばしば国際的な議論の中で衝突することがあります。 しかし近年、国際テロ、ウクライナ侵攻、台湾海峡問題など、平和の脅威は「戦争の有無」だけで語れないものになってきました。そうした中で、日本でも「抑止力としての防衛力」が再評価されつつあります。 4-2 共通点は“平和を望む心” ただし、両国に共通するのは、「平和を望む気持ちは誰しもが持っている」という点です。その手段や前提条件が異なるだけで、平和の重要性を疑う人はいません。 どちらの国も、戦争の記憶を糧にしながら、次の世代に「平和の価値」をどう伝えるかに真剣に向き合っているのです。 おわりに:今、私たちが考えるべき平和とは? イギリス人にとっての平和とは、「守り、勝ち取り、維持するもの」。日本人にとっての平和とは、「守られ、与えられ、失わないようにするもの」。 この違いは、単なる思想の違いではなく、それぞれの歴史と経験の違いから生まれた「平和へのアプローチ」の差です。 しかし、世界が多極化し、価値観が揺らぎ始めた今こそ、異なる視点を理解し合うことが大切なのではないでしょうか。 私たちは、過去の教訓から目を背けることなく、しかし未来の現実とも向き合いながら、新しい「平和のかたち」を模索していく必要があるのかもしれません。
イギリス政府、またしても愚策?核兵器運搬機購入の裏に潜む「税金の無駄遣い」
こんにちは、皆さん。 最近のニュースを見て、正直なところ目を疑いました。「イギリス、核兵器運搬可能な戦略爆撃機の購入を検討」……本気ですか?2025年ですよ? 地球温暖化、物価高騰、NHS(国民保健サービス)の危機、住宅不足……。国民が毎日の生活に苦しんでいる中で、政府が優先すべきことは「爆撃機の新調」なんでしょうか?それも、核兵器を運ぶための。 国家の安全か、無駄なパフォーマンスか? もちろん、政府はこう言うでしょう。「これは国防のため」「核抑止力の維持が必要だ」と。 でもちょっと待ってください。冷戦はもう何十年も前に終わりました。今、私たちが直面しているのは、サイバー攻撃、経済的な不安、パンデミックのような非軍事的脅威です。それなのに、なぜ今さら「核兵器を落とせる飛行機」が必要なのでしょうか? しかも、それにかかる数百億ポンドの費用は、当然ながら私たちの税金です。 私たちの税金、こんなふうに使われていいの? 教育現場では先生が足りず、生徒たちは限られたリソースの中で学び、NHSでは手術の順番待ちが何ヶ月も続きます。地方自治体の財政は逼迫し、福祉サービスはカットされ続けています。 そんな中で政府が出した答えが、「もっと核兵器を運べる飛行機を持とう」? 正気の沙汰とは思えません。 「国の威信」は時代遅れの幻想 現代の安全保障とは、軍事力だけでは語れないはずです。人々の健康、教育、生活の安定、信頼できる社会インフラ。こうした“人間の安全保障”こそが、真の国家の強さです。 大量破壊兵器を抱えて「抑止力だ」と胸を張る姿は、もはや滑稽にすら見えます。21世紀の国際社会で必要なのは、対話と協調、そして平和的解決のための外交力です。 最後に 戦闘機や爆撃機に何十億もの税金を投じる前に、そのお金を「いま本当に困っている人々」に使ってください。未来のために核兵器を準備するのではなく、未来そのものを壊さないための投資をしてほしい。 この決定に疑問を持ったのは、きっと私だけじゃないはずです。
イギリスの携帯電波、なぜいつも不安定なのか?——Threeのネットワークダウンで都市が沈黙した日
ある晴れた日の大事件 2025年6月某日、ロンドン中心部でいつも通りスマホを取り出し、何気なくメールを確認しようとした。……ん?電波がない?Wi-Fiも繋がらない?「まぁ、よくあるよね。ロンドンの中心で圏外なんて」なんて軽く考えていたら、どうも様子がおかしい。LINEも繋がらない、Slackも送れない、通話も不可。そして気づく。「あれ?これは……完全にダウンしてる?」 筆者が利用している携帯キャリアは「Three(スリー)」。格安かつデータ無制限が売りの人気プロバイダーで、若者や留学生にもよく使われている。そのThreeが、ロンドンという都市部で、まさかの全滅。ネットはもちろん、通話さえできない。スマホは手元にあるけれど、まるでただの文鎮。ひと昔前のPDAを持ち歩いているような虚無感に襲われる。 初めは都市伝説レベルの妄想から始まった 「まさか……イランがミサイルでも撃ち込んだ?」そんな妄想が一瞬頭をよぎったほど。冗談半分、でもそれくらい突如として情報が途絶えるというのは人の精神に響く。特に、私のように仕事の連絡がすべてスマホに集約されている人間にとっては致命的だ。 だが、Twitterをチェックすると、同じように「Threeが落ちた」「ロンドンで全滅」「圏外地獄」などと呟く人が続出している。どうやら局地的な異常ではなく、Threeのネットワーク自体が一時的に落ちているらしい。緊急対応が必要なときに、連絡すら取れない——これは単なる不便ではなく「危機管理」の問題だ。 イギリスの電波状況:悪名高き通信インフラ 「イギリスの電波が悪いのは有名な話だよ」と言われたことがある。確かに、多くの観光客や在住者が口を揃えて「ロンドンのど真ん中で圏外」「田舎に行ったらもう何もできない」と嘆く。では、なぜこんなにも通信インフラが貧弱なのか? 1. 歴史的背景と都市構造 イギリスの街並みは美しい。石造りの建物、歴史を感じさせる街路、保存状態の良い旧市街地。だが、その美しさが通信インフラにとっては「天敵」でもある。石造の厚い壁や地下構造、曲がりくねった路地は電波の敵。アンテナの設置にも規制があり、建物の景観を守るために自由に設置できない場合が多い。 2. キャリア間の競争の歪み イギリスには主要なキャリアがいくつか存在する。EE、Vodafone、O2、そしてThree。Threeはその中でも比較的新しく、価格競争力が強いが、エリアカバレッジでは他社に劣ることが多い。「安いから仕方ない」という諦めと、「いつかは良くなるだろう」という希望が交錯しながら、多くのユーザーがThreeを使い続けている。 3. 投資不足と政治の不安定さ イギリス政府は5Gの推進を打ち出しているが、実際のインフラ整備は地域格差が激しく、地方では3Gすら不安定な場所も多い。政治の混乱や予算配分の問題もあり、長期的な通信インフラの拡充にはまだ時間がかかりそうだ。 Three、なぜ落ちた? 今回のThreeのネットワーク障害について、公式からの発表は「技術的な問題」とのことだった。だが、具体的な原因は明らかにされていない。サーバーダウン?基地局の障害?システム更新の失敗?クラウドトラフィックの処理ミス?全てが「ありえる」。 ユーザーからすると、理由よりも「どうして代替手段がなかったのか」が気になる。少なくとも通話だけは別回線で保証してほしいという声も多い。仕事の電話が一日丸ごと繋がらないのは、個人にとっても企業にとっても大きな損失だ。 天気のせい、という謎の安心感 もうこれは天気のせいにして笑うしかない。イギリス人にとって「天気が悪いから」と言えば大抵のことは許されるし、「今日はいい天気だから何かおかしい」となるのもお決まりのジョークだ。電波がダウンしても、「今日は天気がいいからなぁ」と苦笑いするしかないのは、もはやこの国の文化かもしれない。 怒っても仕方ない。でも、備えるべきは「次」 結局、怒ったところで電波が戻るわけではない。技術トラブルはどこの国でも起こるし、完璧なシステムなど存在しない。ただ一つ確かなのは、「次の障害が来ても困らないように備える」ことだ。 ● 代替通信手段の確保 Wi-Fiコーリングや、複数SIMの活用(デュアルSIMスマホなど)は現実的な選択肢。例えばThreeとEEのSIMを使い分けることで、万が一の障害時にも通信を確保できる。 ● メッセンジャーアプリの多様化 WhatsApp、Telegram、LINE、Signalなど、使えるプラットフォームを増やしておけば、どこかが落ちても対応できる。 ● オフライン対策 地図、連絡先、必要な資料などは事前にダウンロードしておく。アナログなメモも意外と役に立つ。 それでもThreeを使い続ける理由 それでも私はThreeを使い続けるだろう。理由は単純、コスパがいいから。ロンドン内でデータ使い放題、海外でもそのまま使えるRoamingの手軽さ、そして月額の安さ。完全無欠ではないけれど、日々の使用には十分耐えうる。そして、ちょっとくらい電波が途切れたら、それもまた「イギリスらしい」エピソードになると思っている。 最後に:通信に依存しすぎた私たちへ スマホが繋がらない一日を経験すると、いかに自分がデジタルに依存していたかに気づく。そして、逆に「繋がらない時間」に何か大事なことを取り戻せるかもしれない。 Threeが落ちた日、私は空を見上げた。見事な快晴だった。「今日は、通信よりも、天気がいいという奇跡を楽しめばいいのかも」と思えたのが、せめてもの救いだった。
イギリスで不発弾が見つかったらイランの仕業だと思ってしまう件について
ニュースの見出しって、たまに悪意あるのかと思うほど紛らわしい。「イーストボーンで不発弾、160世帯に避難指示」って書いてあるのをスマホで見たとき、ついにイランがイギリスを攻撃したかと思った。いやマジで。 だって「不発弾」って、何その不穏な響き。「避難指示」とかついてきたら、そりゃ誰だって「攻撃された!?」って思うじゃないか。で、本文読んでみたら、第二次世界大戦時代のものらしい。不発弾っていうより、「もう80年近く地中で寝てた子」じゃないの。そんなご長寿爆弾を、なんで今さら見つけて大騒ぎしてんの。 しかも場所が「イーストボーン」。海辺の静かなリゾート地、イギリスでも「退職後に住みたい町」ランキング常連。そんな穏やかな土地で「不発弾騒ぎ」。しかも160世帯避難。いや、大ごとじゃん。でもこれ、別に今に始まった話じゃなくて、イギリスでは定期的にこの手の爆弾が見つかってる。 イギリスは定期的に“話題”を提供してくれる なんていうか、イギリスってほんと、話題に事欠かない国だなとつくづく思う。 ・鉄道は毎週のようにストライキ・首相はいつも窮地か辞任間近・王室はネタの宝庫・物価は上がる一方なのに、庶民はやけに明るい そして今回みたいに、「不発弾で160世帯避難」とかいう、映画のワンシーンみたいな出来事まで発生する。なんなんだよ、この国。 私にとってイギリスは、「遠い親戚のちょっとクセ強めな叔父さん」みたいな存在。常に何かやらかしてる。でもなんとなく目が離せない。ニュースアプリで「UK」とつくと、ついクリックしてしまう自分がいる。 イランと聞いてしまったのは私だけではないはず で、今回の「不発弾」騒動なんだけど、見出しが本当に悪い。「イーストボーンで爆弾発見、160世帯に避難指示」なんて見たら、そりゃもう「戦争始まった?」と思うじゃん。時期が時期だし、中東情勢も不安定だし、「ついにロンドン空爆?」って脳内ではすぐに拡大解釈されていく。 「イーストボーン」がパッと出てこなかったせいで、「イラン」だと空目したのは私だけじゃないと思いたい。スマホの通知で「イ」しか見えてなかったら、「イラン」と思っても無理はない。しかも続きが「爆弾」「避難」って、もう確定演出レベル。SNSでも「イランが攻撃?」と勘違いした人が結構いたようで、妙に安心した。 爆弾とともに生きる英国人の胆力 でも、冷静に考えてみると、イギリスって「不発弾と共に生きてる国」なんですよね。第二次世界大戦中、ドイツ軍の空襲(ブリッツ)でロンドンをはじめ、各都市が徹底的に爆撃された。なので、今でもたまに建築工事とかで「地中から爆弾が見つかる」なんて話がある。年に数回はニュースになる。 そして毎回、同じようなプロセスが踏まれる。爆弾発見 → 周辺避難 → 爆弾処理班が来る → 安全に撤去 or 爆破 → 無事終了 → 周辺住民がインタビューで「びっくりしたけど、まあこういうこともあるわよね」って答える この落ち着きっぷり。日本だったら「爆弾が見つかりました!」なんてニュース、1週間ぐらいワイドショーで特集組まれそうなのに。イギリス人、慣れすぎてない? 日本人だったら絶対パニックになると思う 想像してみてほしい。たとえば鎌倉の住宅街で「不発弾が見つかりました、住民160世帯に避難指示」ってなったら、日本の報道はどうなるか。 ・速報テロップが出る・現場からの生中継が始まる・近隣住民が「こんなこと初めてで…」と語る・SNSは「もう終わりだ」と阿鼻叫喚・専門家が爆弾の構造について図解し出す・最終的に「平和ボケ」についての議論が巻き起こる 一方、イギリスはどうかというと、「ええ、またか」くらいの温度感。BBCとかSky Newsも、報道するけど妙に事務的。民間人のインタビューも「避難してる間にティータイムしてたわ」とか、そんな感じ。爆弾に対する距離感がおかしい。 “話題になる力”が違う国 結局、何が言いたいかというと、イギリスという国は何もかもが「話題になる力」を持ってるということ。この「不発弾」もそうだし、選挙もそう。なんなら紅茶をめぐる論争ですら話題になる。 たとえば、 ・「紅茶に先にミルクを入れるか、お湯を入れるか」問題・「ベイクドビーンズは朝食に必要か」論争・「フライデーナイトはやっぱりチップスにビネガーかける派? それとも塩だけ派?」 この手のことが、なぜか国民的話題になるのがイギリス。それが「不発弾」であろうと、「トイレットペーパーが切れた」ことであろうと、イギリスはちゃんとニュースにして、ちゃんと話題にする。これが文化ってやつなのかもしれない。 まとめ:見出しは正確に、でも面白さは失わずに 今回のイーストボーン不発弾事件(と言っていいのか分からないが)で、私はニュースの見出しの影響力について改めて考えさせられた。確かに、「イーストボーンで第二次大戦時の不発弾が見つかる。160世帯が避難」は事実だけど、そう書かれてたら、たぶん誰もクリックしなかった。 でも「イーストボーン」「爆弾」「避難指示」といったキーワードが並ぶと、脳が勝手に現代の戦争と結びつけてしまう。そしてイランの名がチラつく。現代人の悲しい性だ。 とはいえ、私がこのニュースにちょっとニヤリとしたのは、「ああ、イギリスらしいな」と思ったから。地中から出てきた不発弾すら、ユーモアとともに受け入れるこの国の懐の深さに、ちょっとだけ感動すら覚える。 …とはいえ、やっぱり見出しにはもう少し気を使ってほしい。今の時代、「爆弾」「避難」ってだけで、こっちは勝手に世界大戦が始まったかと思っちゃうんだから。
英国で承認された「余命6か月以内」の安楽死制度――医師の責任と植物状態患者の未来
2025年6月、英国議会下院が安楽死に関する画期的な法案を通過させた。この「終末期患者の尊厳ある死に関する法案」は、余命6か月以内と診断された成人が、自己決定に基づいて医師の支援を受けて死を選ぶことを可能にするものだ。これは、これまでの英国医療制度や倫理観に対して大きな転換点をもたらす内容であり、医療現場、法制度、さらには社会倫理にまで深く関わる重要な決断といえる。 しかし、その制度の核心には、医師の診断責任や植物状態にある患者の扱いといった、きわめてセンシティブな問題が横たわっている。本稿ではこの新制度の背景と構造をひもときつつ、医師が担う責任、そして適用外となった患者層について詳しく考察したい。 法案の骨子:対象は「余命6か月以内」「意思判断可能」な成人のみ 新たな制度は、以下の条件を満たす場合にのみ安楽死を認めるという厳格な枠組みの下で運用される予定だ。 このように、制度の設計はきわめて保守的であり、「誰もが簡単に死を選べる」ような自由な制度ではない。自己決定権を尊重しながらも、誤用・濫用を防ぐために複数のチェック機構が設けられているのが特徴だ。 医師の「余命診断」が意味するもの――科学か、賭けか もっとも大きな論点のひとつは、医師が担う「余命6か月以内の診断」という責務である。これは一見すると客観的な医学判断のように見えるが、実際には高い不確実性を含む推測である。 がんや末期臓器不全のように進行が比較的予測しやすい疾患であっても、正確な余命診断は困難だ。過去の研究によれば、多くの医師は患者の余命を過大に見積もる傾向があり、実際の生存期間と診断結果には乖離があることが指摘されている。 この制度下では、2名の独立した医師が「6か月以内」と診断する必要があるが、それでも誤差が生じる可能性は否定できない。その結果、まだ生きる可能性があった患者が、制度に則って命を絶ってしまうという悲劇的な事例も起こりうる。 また、制度上は専門パネルによる審査も設けられており、診断に対する一定のブレーキ機能はあるが、最終的には医師の判断に依存する部分が大きい。果たして医師は「死を決定づける診断」という重荷を、倫理的・心理的にどこまで引き受けることができるのか。この点には今後の議論が必要である。 医療従事者の倫理と権利――良心的拒否と制度的サポート 新制度では、医療従事者が安楽死のプロセスに関わることを「良心的理由」で拒否する権利も保障される見通しだ。宗教的信念や倫理観に基づいて拒否することができると明記されることで、医師個人の価値観を無視するような強制力は排除される構造になっている。 とはいえ、現場ではさまざまな葛藤が予想される。ある医師は安楽死に賛同しても、家族や病院方針に逆らえない状況もあるだろう。また、一部の患者は「医師に診断してもらえなければ安楽死できない」ことを逆手にとって、医師に過剰な期待や圧力をかける恐れもある。 こうした事態を避けるために、制度的な支援――たとえば倫理委員会の設置、医師への心理的ケア、法的ガイドラインの整備などが不可欠となるだろう。安楽死の制度化は、単なる法律の制定ではなく、社会全体で支えるべき倫理的インフラの構築を意味している。 「植物状態」の人々はどうなるのか? 現在の法案では、判断能力のある患者のみが対象とされており、植物状態にある人や認知症で意思表明できない人は対象外とされる。 英国では従来から「生命維持装置の停止」を巡る判断が、裁判所を通じて行われてきた経緯がある。植物状態や深刻な意識障害のある患者に対しては、家族が代理人として判断を下し、医療チームと協議のうえで、延命治療を中止するという形が一般的だ。 つまり、今回の制度はあくまで「本人の自律的判断」に基づく安楽死であり、他者による代弁や推定意思に基づいて死を選択することは認められていない。 この点において、制度が抱える倫理的限界も明らかだ。たとえば、かつては生前に安楽死を希望していたが、現在は意思を示すことができない――そうした患者は制度の対象外となる。これに対し、「事前指示書」の有効性や、「推定意思」をどう扱うかという問題が今後の議論の焦点となることは間違いない。 社会に問われる「死の自己決定」とは何か 安楽死制度は、単なる医療行為の選択肢を増やすという意味にとどまらない。「どのように死ぬか」を自己決定できることは、すなわち「生きる意味を選び直すこと」と表裏一体の関係にある。 しかしその選択が、「本人の意思」であることをどう担保するのか。家族からの圧力、医療費の問題、孤独感や社会的疎外――そういった社会的要因が「死の選択」を誘発する可能性があるという点を軽視してはならない。 医師の判断や制度の整備がどれほど周到であっても、個人の決断の背景には、経済的・心理的・社会的要因が複雑に絡み合っている。制度が整えば整うほど、「本当にこの人は自分で選んだのか?」という問いの重みが増す。 終わりに――「尊厳ある死」が社会にもたらすもの 英国が今回の法案によって世界的な安楽死容認国の仲間入りを果たすことは間違いない。しかし、それは単なる進歩ではなく、責任を伴う選択でもある。医師に「死の予測」を課し、患者に「自分の命の終わり方」を選ばせるという制度は、私たちの社会が生命観そのものを見直す契機となる。 この法案が最終的に上院でも承認されれば、英国は新たな医療倫理の時代へと足を踏み入れるだろう。しかしその先には、制度の濫用、倫理的分断、医師と患者の信頼関係の変化といった課題が山積している。 安楽死は、単に「死ぬ自由」を与えるものではない。「どう生き、どう終わるか」という最も根源的な問いに、国家としてどう答えるか――それが、今まさに私たちに突きつけられているのである。
排除という本能と、イギリスに根づく人種差別の「現在形」
2025年の今もなお、イギリス社会において人種差別は完全には消えていない。それどころか、表面上は寛容と多様性を称えながらも、深層では根強く差別的な感情が残っている場面は少なくない。警察による職務質問、メディアにおける描かれ方、就職の機会、住宅探しの難しさ、SNSでの発言…。具体的な事例を挙げれば枚挙に暇がない。 では、なぜこの国では、これほどまでに「差別」が粘着的に残り続けているのだろうか。多くの議論は「植民地時代の歴史」や「帝国主義の遺産」といった歴史的文脈に還元されがちだ。確かにそれらは見過ごせない大きな要因だ。しかし、それだけでは語り尽くせない深い問題がある。もしかすると、差別の根源はもっと根本的で、もっと生物的な本能に根ざしているのではないかという疑念がある。 ■歴史だけでは説明できない「選別」 イギリスには長い植民地支配の歴史がある。大英帝国はアフリカ、アジア、カリブ海諸国に覇を唱え、現地の文化や政治を支配してきた。その過程で築かれた「白人優位」という価値観は、移民を迎え入れる21世紀に入っても形を変えて生き続けている。とりわけ黒人、アジア系、中東出身者への視線は今なお厳しい。 だが、単に「過去に差別していたから今も差別が残る」のだろうか? それではあまりに説明として浅い。むしろ、人間の根底には、自分たちのコミュニティや安全を守ろうとする「排除の本能」があるのではないか。つまり、異質な存在を本能的に警戒し、脅威とみなす傾向だ。 ■進化心理学が示唆する「本能としての排他性」 進化心理学の観点からは、人間は太古の昔から「自集団」と「外集団」を区別し、後者を警戒することで生存確率を高めてきたとされる。見た目が違う、言語が違う、風習が違う…そうした要素は、かつては生死に直結するリスク要因だった。異なる部族は敵である可能性が高く、資源や安全を奪い合う対象だったからだ。 この「外集団への警戒心」は、現代社会においては非合理である。しかし、脳の構造は何万年も前から大きく変わっていない。だからこそ、多くの人は理屈では「多様性は大切」と思っていても、心の奥底では「異なるもの」への漠然とした不安を抱く。 イギリス社会で問題視される人種差別の一端には、こうした進化的背景が横たわっている可能性は否定できない。 ■「危害を加えるかもしれない」という妄想の力 では、なぜその本能が現代イギリスにおいて特定の人種や民族に向けられてしまうのか。ここで鍵となるのが「危険認知」のメカニズムだ。現代人は、現実に危害を加えられた経験がなくても、メディアや噂によって「この人種は危険かもしれない」という印象を強めていく。 例えば、イスラム教徒の中にごく一部テロリストがいたというだけで、すべてのイスラム系住民が潜在的脅威とみなされることがある。黒人男性が犯罪報道で強調されると、すべての黒人が危険視される。アジア系がコロナウイルスの発生源と報じられれば、東アジア系に対する偏見が高まる。 これらは「本能」というよりは「学習」や「刷り込み」に近いが、人間の本能と結びつくことで極めて強固な偏見を形成してしまう。つまり「危害を加える可能性がある」という“妄想”が、人種差別という形で現れるのだ。 ■排他性を刺激する「ポリティカル・コレクトネス」 皮肉なことに、多様性を推進する社会政策やメディアの言説も、しばしば逆効果を生んでしまう。特定の人種を「守られるべき存在」として扱うあまり、逆に「加害者側」としての多数派(多くは白人)に不満や逆差別意識を生むことがある。 「黒人だから選ばれた」「移民ばかり優遇される」「自分たちが抑圧されている」――こうした言葉はイギリスの一般市民の口からも聞こえてくる。つまり、差別撤廃を目指すはずのポリコレ的発想が、「自分たちが不当に扱われている」という感情を刺激し、新たな差別や排他意識を育ててしまうのだ。 ■では、どうすればいいのか ここまで来ると、あまりに絶望的に聞こえるかもしれない。人種差別は歴史の問題だけではなく、人間の本能とも結びついている。それならば、解決など不可能ではないか? だが、決してそうではない。本能があるからこそ、それを抑制する「理性」や「教育」、「経験」が重要になってくる。人間は動物でありながら、文化や倫理を築き上げてきた存在だ。差別意識もまた、時間と共に変化し得る。 たとえば、実際に多様な人々と協働したり、隣人として付き合ったりすれば、先入観は容易に崩れていく。「危害を加えるかもしれない」という幻想は、現実との接触によって薄れていく。逆に言えば、分断され、互いを「見ない」状況が続けば、差別は再生産され続ける。 ■理想よりも「現実的な関係」を イギリス社会が本当に人種差別を克服するには、「みんな仲良く」という理想論よりも、「共存のためのリアルな接点作り」が求められる。学校、職場、地域社会など、異なるバックグラウンドを持つ人々が日常的に交わる場の構築が、遠回りに見えて最も有効だ。 そしてもう一つ重要なのは、「差別は本能でもある」という事実を否定しないことだ。それを認めた上で、人間がどこまで理性でそれを乗り越えられるかを問い続けること。理想を語るだけでなく、弱さも含めた人間理解に立脚する社会こそが、差別を少しずつでも減らしていけるのだと思う。
イスラエルの孤独な強さ:中東における「味方」としての存在感
中東という地域を語るとき、しばしば浮かび上がるのは混沌、宗教対立、石油利権、そして絶え間ない紛争である。そんな中で、まるで異物のように存在するのがイスラエルという国家だ。ユダヤ人国家として1948年に建国されて以来、イスラエルは自らを取り囲むアラブ諸国と幾度も戦い、時に外交的孤立に陥りながらも、今日に至るまでその地位を強固に築いてきた。 本稿では、中東におけるイスラエルの「味方」とされる存在、アメリカの軍事的関与、そしてイスラエルの“強さ”の根源に迫り、その地政学的現実と精神的基盤を多角的に読み解いていく。 ■ 中東で「味方」となりうる国々:敵か、共通の利害か 中東でイスラエルを公然と支持する国は極めて少数である。だが、状況は一枚岩ではない。近年、一部のアラブ諸国との関係改善が見られ、その背景には単なる外交戦略以上の地政学的現実が横たわっている。 ● アブラハム合意という地殻変動 2020年、トランプ政権下で結ばれた「アブラハム合意」は、イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、モロッコ、スーダンといった国々との国交正常化を実現させた。 これは単なる平和協定ではない。中東地域において、長年にわたり敵対関係にあったアラブ諸国がイスラエルとの「共存」を選んだ瞬間であり、イランという共通の脅威が、その背後にある大きな原動力であったことは否定できない。 イランの核開発やシーア派圏の拡大に脅威を感じるスンニ派アラブ諸国にとって、イスラエルはもはや「共通の敵」ではなく、「共通の守り手」としての可能性を帯び始めているのだ。 ● サウジアラビアという“非公式の協力者” サウジアラビアは、公式にはいまだイスラエルと国交を樹立していない。だが、水面下では安全保障や情報共有の分野において、静かな協力関係が築かれていると多くの報道が示唆している。 とりわけ注目すべきは、イスラエルとサウジがともにイランを最大の戦略的リスクと見なしている点である。地政学的合理性が、この二国を不可視の協力関係へと導いているのだ。 ■ アメリカ軍は本当に中東から撤退したのか? ここ数年、「アメリカは中東から手を引いた」といった報道を耳にすることがある。だが、その実態はもう少し複雑である。 ● 地上戦からの「引き上げ」と駐留の現実 たしかに、アメリカはイラクやアフガニスタンといった地域から多くの地上部隊を撤退させた。長引く戦争と国内世論の疲弊を受けての決断であり、「無限戦争」に終止符を打とうとする動きでもあった。 しかしそれは、中東全体からの「完全撤退」を意味しているわけではない。カタール、クウェート、バーレーン、UAEなどには今も多数の米軍基地が存在しており、その駐留は続いている。 特にバーレーンには、アメリカ海軍の中東地域担当である第5艦隊が駐留しており、ペルシャ湾から紅海、アラビア海に至るまでの広大な海域をカバーしている。 ● 軍事的「プレゼンス」から影響力の維持へ つまり、アメリカは直接的な戦争の前線からは後退したが、中東地域における影響力は手放していない。むしろ、空軍・海軍力、そして諜報力を通じて、間接的に戦略的主導権を保持しているとも言える。 このアメリカの“後方支援”的な存在感が、イスラエルにとっては重要なセーフティーネットでもある。 ■ イスラエルの「強さ」はどこから来るのか? 中東で孤立する小国イスラエル。だがその小国は、決して弱くはない。むしろ、「強すぎるがゆえに孤立している」と言った方が近いかもしれない。その強さは、単なる軍事力の話ではない。より深層に、精神的・国家的な強さが潜んでいる。 1. 軍事・技術力という「質」の防衛 イスラエルの軍事技術は、世界でも屈指の水準にある。「アイアンドーム」に代表される防空システム、最先端のサイバー戦能力、ドローン技術、さらには情報機関モサドの存在。どれをとっても小国のそれとは思えない。 加えて、徴兵制度により国民の多くが軍事訓練を受けている社会であるため、国防に対する国民的な意識も高い。 2. アメリカとの「特別な関係」 イスラエルは、年間30〜40億ドルにものぼる軍事支援をアメリカから受け取っている。この規模は世界でも異例であり、イスラエルがいかにアメリカの戦略的拠点であるかを示している。 これは単なる軍事同盟ではなく、「代理国家」的な性質を持つ。中東においてアメリカが直接軍を展開せずとも、イスラエルを通じて地域への関与を続ける構図がある。 3. 国家としての覚悟と結束 建国以来、戦争とテロにさらされ続けてきたイスラエルには、**国家存続に対する“本気度”**がある。国民一人ひとりが「もし戦争になれば戦う」という意識を持ち、国家全体が生存戦略としての防衛体制を日常的に意識している。 「我々が守らなければ、誰も守ってくれない」──この根底の意識が、外交でも軍事でもブレない行動原理となっている。 ■ 「自分たちは正しい」という確信の源泉 イスラエルが強硬な姿勢をとるたび、国際社会から批判の声があがる。しかし彼らはなかなかその姿勢を変えない。その根底にあるのは、確固たる「自己正当化」の信念である。 ● 宗教的確信 ユダヤ教における「選民思想」や、「神から与えられた土地」という信念が、イスラエル人にとっての土地と国家の正当性を支えている。 これは、外から見ると宗教的独善に見えることもあるが、彼らにとってはアイデンティティそのものである。 ● 歴史的なトラウマ ホロコースト、ポグロム、数世紀にわたる迫害の歴史。これらがユダヤ人に深い教訓を与えた。 「もう二度と、無力ではいられない」 このフレーズがイスラエル建国の精神的バックボーンとなっており、それは今も外交や軍事のあらゆる場面で反映されている。 ● 民族的アイデンティティ …
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スパイの国は涼しい顔をしている ― イギリスと世界支配の“見えざる手”
「誰が世界を動かしているのか?」そう問われれば、多くの人はアメリカ、あるいは中国やロシアの名前を挙げるだろう。しかし、世界の歴史を静かに観察してきた者なら、もう一つの答えが頭をよぎる――イギリスだ。 この島国は、派手な軍事行動も、声高な外交声明もあまり出さない。だがその代わりに、“情報”という見えざる剣を巧みに振るってきた歴史を持つ。その象徴こそが、MI6――世界最高峰のスパイ組織の一つであり、「静かなる帝国」の影の司令塔だ。 スパイの原点:イギリスが作った“諜報国家”という概念 イギリスの諜報活動は、決して20世紀に始まったものではない。すでにエリザベス1世の時代(16世紀)には、スパイ・マスターであるフランシス・ウォルシンガムが海外の動向を探り、ローマ・カトリック勢力から女王を守るための情報網を張り巡らせていた。イギリスは早い段階から、「情報こそが国家存続の鍵である」ことを理解していたのである。 そして第一次世界大戦と第二次世界大戦を経て、MI5(国内担当)とMI6(国外担当)が本格的に組織化され、現代的なスパイ国家としての体制が整っていく。だがその真骨頂が発揮されたのは、冷戦時代だ。 冷戦の影の支配者:MI6の二重スパイ戦略 冷戦時代、世界の表面ではアメリカとソ連が対立していた。だがその裏で、イギリスのスパイたちは独自の“ゲーム”を展開していた。特に有名なのが、ケンブリッジ・ファイブ事件だ。 これは、イギリスの名門ケンブリッジ大学出身の5人のインテリが、実はソ連のスパイだったという衝撃の事件である。だがこの事件の“裏”には、MI6による巧妙な情報操作があったという説も根強い。二重スパイの存在を容認することで、より深く相手側に入り込み、誤情報を流し、行動をコントロールする。情報とは、ただ盗むものではなく、“創るもの”だとイギリスは知っていた。 アメリカの影に隠れて、情報を操る アメリカにはCIAという巨大な諜報機関がある。しかし、現場のスパイたちがしばしば語るのは、「MI6のほうがはるかに老練で、静かで、実務的」という事実だ。 実際、アメリカが戦争や制裁を始めるとき、イギリスの情報機関が背後で“下準備”をしているケースは少なくない。たとえばイラク戦争前、イギリスが提供したとされる“サダム・フセインの大量破壊兵器に関する情報”は、アメリカの開戦の口実になった。 その情報が後に誤りだったことが判明しても、アメリカの非難が集中する。イギリスはあくまで「情報提供者」に過ぎないという立場で、責任を巧妙に回避する――まるで諜報戦術を国家外交の原理にまで昇華させているかのようだ。 スパイ天国・ロンドン:亡命者と二重スパイが集う都市 ロンドンは今や「世界の情報戦の十字路」とも呼ばれる都市だ。旧ソ連圏の亡命者、アラブの富豪、中国やロシアの企業家、国際金融のエリート――その全てがロンドンに集まり、同時にMI6の目もそこに集中している。 ロシアの元スパイ、アレクサンドル・リトビネンコ毒殺事件や、セルゲイ・スクリパリ暗殺未遂事件など、イギリス国内で起きる“怪しい事件”の数は、他国とは比較にならない。これは裏を返せば、ロンドンが世界最大級のスパイ活動の交差点になっていることの証左でもある。 サイバー時代のMI6:目に見えない戦争の最前線 21世紀に入り、戦場は物理空間からサイバー空間へと移行した。MI6もその変化にいち早く適応している。国家の通信傍受を担う**GCHQ(政府通信本部)**は、アメリカのNSAと並ぶ電子諜報の巨頭として知られ、世界中の通信・SNS・ハッキング情報をリアルタイムで解析している。 特に注目すべきは、イギリスが中国のテクノロジー覇権やロシアの選挙介入に対して、アメリカ以上に先回りして警鐘を鳴らしてきたという点だ。そしてその主張は、欧州諸国を動かす原動力になっている。 結びに ― 情報こそが、現代の“帝国”の武器である 軍事力は衝突を引き起こす。経済力は時に反発を招く。だが情報は、誰にも気づかれずに人々の行動や国家の方向を変えてしまう。 イギリスは、かつて世界を軍事と植民地で支配した。しかし今は、スパイと情報という“無血の帝国”を築き続けている。MI6とは単なるスパイ組織ではない。国家戦略の心臓部であり、世界秩序の見えざる編集者なのだ。 紅茶を啜る静かな午後の背後で、どこかの国の政権が崩れ、どこかの通貨が暴落する。だがイギリスは、いつも涼しい顔をしている。なぜなら、世界の物語の“プロット”は、すでに彼らの手によって書き換えられているのだから。