フランスの抗議活動はなぜ終わらないのか――「働くのをやめる力」を忘れた日本

フランスで抗議活動が続いている。11月5日にも、生活費の上昇などへの不満を背景に、各地でストライキとデモが行われた。労働組合が求めているのは、賃上げや税制改革、若者の教育環境の改善などだ。日々働き、生活を支えている人たちが、今の社会のあり方に異議を突きつけている。AFP.com

こうした光景を見ると、日本では「またデモか」「そんな時間があるなら働けばいい」「暇な人が騒いでいる」といった見方が出てくる。

しかし、この「働けばいい」という言葉にこそ、抗議活動への理解の欠如が表れている。

ストライキを伴う抗議活動の核心は、働くことをやめ、経済を停滞させることで、政府や企業に無視できない圧力をかけることにある。

参加者に仕事がないから街に出ている、と考えてしまうと、肝心なところを見落とす。働いている人が、その労働の提供を止める。そこに交渉力が生まれるのである。

もちろん、街頭デモのすべてが仕事を止めるわけではない。デモは不満と連帯を可視化し、ストライキは生産やサービスの提供に直接影響を与える。その二つが結びつくことで、抗議は経済を動かす側からの圧力になる。

政府にとって、国民が不満を抱えていることと、国民が仕事を止めることには、大きな違いがある。

不満を口にしながらも、翌朝には出勤する。商品をつくり、荷物を運び、店を開け、売上を生み出し、税金を納める。それが続く限り、社会を運営する側は、少なくとも日々の経済活動が続くことを期待できる。

ところが、働く人たちがまとまって労働を止めると、その前提が崩れる。

鉄道が止まれば、人の移動が滞る。物流が止まれば、商品や部品が届きにくくなる。工場が止まれば、生産や納品が遅れる。店舗やサービスが営業できなければ、売上が失われる。影響は取引先や消費者へと広がっていく。

規模と期間によっては、企業収益や家計所得が減り、税収にも影響が及ぶ。すべてのお金の動きが一度に止まるわけではないが、経済の重要な部分で流れが細り、支払いの連鎖に負担がかかる。

政府や企業にとって、国民がまとまって働くのをやめることは、最も痛い圧力の一つなのである。

ここで、資本主義経済の構造を考える必要がある。

企業は売上を見込んで賃金や仕入代金を支払い、借入金を返す。家計は収入を見込んで家賃や住宅ローン、生活費を支払う。政府も、継続的な税収や資金調達を前提に予算を組み、国債の償還や利払いを行う。

今日の収入が、明日の支払いを支える。将来も経済が動くという見通しが、現在の借入れを支える。

このように、経済が回り続けることを前提に次の支払いをつないでいるという意味で、国家や企業の運営には「自転車操業」に似た側面がある。借金があること自体を破綻と同一視する必要はない。問題は、収入が落ちても、支払いの期限まで一緒に止まってくれるわけではないことだ。

商品が売れなくても家賃は発生する。生産が止まっても返済日は来る。経済活動が弱まっても、政府の支出の必要性が消えるわけではない。

だからこそ、労働を止める行為が効く。

経済を停滞させ、要求を放置する方が高くつく状況をつくる。そして、政府や企業を交渉の席に引き戻す。

「私たちの生活を軽く扱うなら、私たちの労働が当然に提供されると思わないでほしい」。ストライキが突きつけるのは、この関係である。

フランスの抗議者たちは、この力を行動で示している。

国を動かしているのは、政治家の演説や企業の経営方針だけではない。電車を運転し、荷物を運び、清掃し、教育し、現場で働く人がいて、初めて社会は動く。

普段は当たり前に受け取られている仕事も、止まった瞬間に、その価値が見える。

人々が働き続けている間は、その労働が十分に評価されなくても社会は回ってしまう。労働を引き揚げることで、ようやく「この人たちがいなければ回らない」という現実が表に出る。

それを理解している人に向かって「暇なら働け」と言うのは、交渉の手段そのものを理解していない発言だ。

参加する側にも生活がある。仕事を止めれば収入を失うこともある。それでも行動するのは、今の条件を受け入れ続けることで失うものが、さらに大きいと考えるからだ。

日本にも、抗議活動やストライキは存在する。厚生労働省の2025年調査では、争議行為を伴う労働争議は77件で、そのうち半日以上のストライキは30件だった。この統計は政治デモ全体を数えたものではないが、労働を止める行動が日本でも実際に行われていることは確認できる。mhlw.go.jp

その上で、日本社会で考えたいのは、抗議する人に向けられる視線である。

賃金が上がらなくても我慢する。生活が苦しくても出勤する。負担が増えても「みんな大変だから」と受け入れる。そこで誰かが声を上げると、その人の態度や、周囲に与える迷惑が先に問題にされる。

こうした反応が積み重なれば、待遇を変えるための行動は起こしにくくなる。

物価高や低賃金には不満がある。しかし、その状況を変えようとする人が仕事を止めると、「社会を止めるな」と批判する。それでは、労働を提供する側は何を交渉材料にすればよいのだろうか。

労働が止まると困るのであれば、その労働には相応の価値がある。困るという事実は、働く人たちの要求に耳を傾ける理由にもなるはずだ。

もちろん、ストライキの負担は政府や大企業だけに届くものではない。中小企業や他の労働者、市民にも及ぶ。参加者自身も代償を払う。それでも抗議が起きるのは、普段の生活の中ですでに負担を引き受けている人たちが、その配分を変えようとするからである。

目の前の交通の不便には怒る一方で、何年も続く生活の苦しさには我慢を求める。その価値判断は、誰にとって都合がよいのか。

抗議する人同士を責め合わせれば、政府や企業への圧力は弱まる。「迷惑をかけるな」という言葉は、それを口にする人の意図にかかわらず、現状を維持する力として働きうる。

ここに、日本社会の深い問題がある。

働き続けることだけを正義とし、自分たちの交渉力を使う人を批判する。その思考停止を、筆者は「洗脳」と呼びたい。

真面目さや責任感は、大切な資質である。しかし、それが「どんな条件でも働き続けなければならない」という服従に変われば、自分を守る力を失わせる。

生活を苦しくする条件には従い、その条件を変えようとする行動には反発する。自分の立場を弱くする価値観を、自分を律する道徳だと信じてしまっている。

フランスの抗議者たちは、国民の労働が政府や企業を支えると同時に、政府や企業に対抗する力にもなることを理解し、その力を使っている。

少なくともこの点では、抗議する人を「暇人」と笑い、どれだけ不満があっても働き続けることを当然とする日本の空気より、はるかに現実を見ている。

社会が止まることを恐れるのであれば、その社会を毎日動かしている人たちの生活を、もっと重く扱うべきだ。

「私たちが働かなければ、この国は回らない」。

フランスで続く抗議活動は、その単純で強力な事実を、政府と企業に繰り返し思い出させている。

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