
かつてのイギリス社会において、「のうのうと生きる」という言葉は、むしろ賛辞に近い響きを持っていた。昼下がりの紅茶、パブでの社交、ワークライフバランスの重視――それらは「豊かな生活」を象徴するものであり、過度な労働は“野蛮”とすら考えられていた。
だが、2020年代半ば、イギリスは静かに、だが確実に変貌している。
「働きすぎは美徳ではない」と言いながらも、多くの国民が“仕事を失うこと”への恐怖を感じている。「のうのう」とした気楽な生き方が、過去のものとなりつつあるのだ。
■ 1. かつてのイギリス人は“怠惰”だったのか?
そもそも、イギリス人は本当に「のうのう」と生きていたのだろうか?
「のうのう」とは、決して何もしていないという意味ではない。むしろ、「余暇を優先する」「過労を避ける」といった、労働と生活の間に明確な一線を引く生き方を指していた。
イギリスは産業革命の発祥地であり、19世紀以降、世界でもっとも労働者階級が酷使された国のひとつだった。その反動として20世紀後半以降、労働時間の短縮、週休2日制の普及、有給休暇の保障が進み、「働きすぎはよくない」という文化が根付いた。
特に中流階級以上においては、「仕事でストレスを溜めるより、趣味や旅行を楽しむこと」が一種のステータスとされた。国家全体としても、手厚い社会福祉と失業保険制度に支えられ、失職のリスクは「一時的な不便」にすぎなかったのである。
しかし、世界は変わった。
■ 2. 崩れる安心――Brexitが開けた“パンドラの箱”
2016年のBrexit(イギリスのEU離脱)は、イギリス社会にとって“想定外の扉”だった。
EU市場との断絶は、企業にとって輸出入のコスト増加・人材確保の困難という形で直撃した。多くの多国籍企業は、本拠地をロンドンからアムステルダム、フランクフルトへと移し、結果として「職の安定神話」が揺らぎ始めた。
また、EU離脱は労働市場の流動性を低下させ、特に製造業やサービス業において、人手不足と賃金上昇の圧力が生じた一方で、雇用の不安定化が進んだ。経済の“断熱化”は、イギリス経済のグローバル競争力にも影を落とした。
■ 3. パンデミックがもたらした“働き方の地殻変動”
そして2020年、COVID-19パンデミックが世界を襲った。
ロックダウンと経済活動の停止により、イギリスのGDPは戦後最大の縮小を記録。多くの労働者が一時解雇や業務縮小を経験し、「職の不安定さ」が現実味を帯びることとなった。
しかし、パンデミックは“危機”であると同時に、“変化”でもあった。
リモートワークの急拡大、業務のデジタル化、クラウドベースのコラボレーションツールの普及により、「オフィスに通う必要性」が急速に薄れた。これにより一部の職種は劇的に効率化されたが、他方で“機械に置き換えられる”職種が浮き彫りになった。
「この仕事、本当に人間がやるべきなのか?」
こうした問いが、皮肉屋のイギリス人にも突き刺さった。
■ 4. AIの衝撃:「ジョン」ではなく「ChatGPT」
2022年以降、生成AIの台頭は、労働市場にとって“最大の黒船”となった。
ChatGPTに代表されるAIツールは、単なる文書作成や翻訳を超え、法的助言、プログラミング、医療相談、教育指導、さらにはクリエイティブ業務にまで踏み込んでいる。
最初は「面白いおもちゃ」として受け入れられていたAIも、次第に「自分の仕事を脅かす存在」へと見なされるようになった。
とりわけイギリスでは、以下の職種が高い“代替可能性”を指摘されている。
- カスタマーサポート
- 経理・会計業務
- 一般事務
- 教育アシスタント
- マーケティングリサーチ
従来、「安定職」とされてきたホワイトカラーの職も、AIによる脅威に晒されているのだ。
■ 5. Z世代の“ワーク・アンザイエティ”と自己防衛
こうした情勢の中、最も大きな変化を見せているのがZ世代(1997年以降に生まれた世代)である。
かつての若者が「自由」「冒険」「クリエイティブな生き方」を追い求めていたのに対し、現在のZ世代は「安定」「保証」「リスクヘッジ」に重点を置いている。
実際、英Guardian紙の2024年の調査によれば、Z世代の62%が「今後10年以内に職を失う不安を感じている」と回答。副業・スキルアップ・資格取得といった“自己防衛的行動”が広まり、「履歴書映え」するキャリア構築が重視されている。
就職活動も、単なる職種や企業名だけでなく、以下のような視点が加味されている。
- 「リストラ耐性が高い業種か?」
- 「この職業はAIに奪われないか?」
- 「数年後に転職しやすいスキルが身につくか?」
SNSでは #JobSecurity や #Upskill がトレンドとなり、かつては笑われていた“キャリア不安”が、もはや社会の共通言語になった。
■ 6. LinkedInに群がる中年たち——中高年層の意識改革
変化は若者だけではない。
かつては「俺はこのまま定年まで働ける」と信じていた50代の中年層も、LinkedInでプロフィールを更新し、CVの書き直しやオンライン講座に勤しんでいる。
イギリスでは政府主導で「スキルアップ・リスキルプログラム(職業再訓練)」が推進され、テクノロジー系・医療系・教育系への転職支援が強化されている。大学を再び訪れる中年も珍しくなくなった。
■ 7. “のうのうイギリス人”の終焉と新しい国民性
こうして、「仕事がなくてもなんとかなるさ」と笑っていたイギリス人は、“絶滅危惧種”となりつつある。
代わって登場したのは、不安を原動力に自己成長に勤しむ新たな国民像だ。彼らは皮肉を言いながらも真剣に「自分の価値とは何か?」を問う。短期的な快楽より、中長期のキャリア設計を重視する傾向が強まっている。
“スキルベース社会”への移行は、今後の教育・雇用制度を根底から揺るがすかもしれない。
■ 8. 結びに代えて:不安が開く、変革の扉
イギリス社会に静かに浸透する「職を失うかもしれない」という危機感。それは決してネガティブな兆候ばかりではない。
人は恐怖によって初めて変化する。そして変化の果てには、柔軟で競争力ある社会が待っている。
「働き方を変えなければ生き残れない」というプレッシャーは、個人を鍛え、社会を進化させる。これまで「怠惰」と揶揄されてきたイギリス人が、もしかすると次のイノベーションを牽引する“新しい労働者像”を提示するかもしれない。
のうのうと笑っていた彼らは、今、静かに戦っている。
明日の職を、そして未来の生き方を掴むために。
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