
はじめに
2016年の国民投票により、イギリスは欧州連合(EU)からの離脱を決定した。この「ブレグジット(Brexit)」は世界に衝撃を与え、その後の交渉と混乱も記憶に新しい。離脱から数年が経過し、イギリス経済や社会のさまざまな側面で影響が明らかになる中、再びEUに戻るべきではないかという声も一部で上がっている。
しかし、現時点ではイギリス政府も国民の多数派もEUへの再加盟に前向きではない。その理由の一つとして、移民問題がある。特に、EU加盟国からの移民に対する懸念が、国民感情に強く影響を及ぼしているという見方がある。この記事では、イギリスがEUに戻らない主な要因としての移民問題に焦点を当て、社会的・経済的背景、政治的文脈、そしてイギリスという国家の価値観に基づく考察を行う。
EU加盟によって自由化された人の移動
EUの基本原則の一つは「人の自由な移動」である。加盟国の国民は、他の加盟国内で自由に働き、住み、学ぶことができる。この原則により、特に東欧諸国(ポーランド、ルーマニア、ブルガリアなど)から多くの人々がイギリスに移住し、労働市場に参入した。
2004年にポーランドなど10カ国がEUに加盟した際、イギリスは移行期間を設けず、すぐにこれらの国々の市民を受け入れたため、一気に移民が流入した。その結果、労働市場の構造に変化が生じ、特に低賃金の単純労働分野においてイギリス人の仕事が奪われているという不満が一部で高まった。
「安価な労働力」としての移民と、それに伴う社会的不安
移民はイギリス経済にとって必要不可欠な労働力でもある。実際、多くの移民がNHS(国民保健サービス)や農業、建設、ホスピタリティ産業などで重要な役割を果たしてきた。しかし同時に、移民によって賃金が抑制される、地域の公共サービスに過剰な負担がかかる、文化的な摩擦が起こるなどの不満も高まっていた。
一部の市民は、特定の地域で犯罪率が上がったり、学校や病院が過密化したりするのは、移民の急増によるものだと考えている。そうした不安が、EUにとどまることで「制御不能な移民流入」が続くという印象を助長し、EU離脱支持に傾く人々の心を捉えた。
メディアと政治が煽る「秩序の崩壊」への恐怖
保守系メディアの中には、EU移民に対する否定的な報道を繰り返し行ってきた。「素行の悪い移民」「福祉目当ての移民」「社会の秩序を乱す存在」といったイメージが拡散され、多くの国民の移民観に影響を与えた。
また、政治家たちも選挙のたびに「国境管理の回復」「イギリスの法律をイギリスで決める」というスローガンを掲げ、国民感情を巧みに利用した。これは単なる経済の話ではなく、「国家としての主権」や「社会の秩序維持」に直結する問題として描かれた。
秩序を重んじるイギリス社会において、「移民によって秩序が乱される」という恐れは、合理的な議論を超えた感情的な問題として定着してしまった側面がある。
経済的合理性 vs 社会的感情
経済的には、EUとの貿易や人材交流の再強化は多くのメリットをもたらすとされる。現に、EU離脱後のイギリス経済は伸び悩み、外国企業の撤退や人手不足が深刻化している。特に医療・介護分野では、かつてEU移民に支えられていた労働力の確保が困難になっている。
しかし、経済合理性だけでは国民感情を動かすことはできない。むしろ、移民問題をめぐる「秩序」や「文化的アイデンティティ」に関する懸念が、再加盟への道を閉ざしている。多くのイギリス国民は、「自由な移動」というEUの基本理念そのものに対して、再び受け入れることに心理的抵抗感を抱いている。
「戻らない」というより「戻れない」現実
仮にイギリスがEUへの再加盟を希望したとしても、現実的には難しい。まず第一に、加盟には全加盟国の承認が必要であり、EU側にとっても再びイギリスを受け入れることは政治的リスクが伴う。しかも、イギリスがEUに再加盟したとしても、自由な人の移動を拒否する「特別待遇」を得ることは不可能に近い。
EUはブレグジットを「他国にとっての見せしめ」にしたい思惑もあり、「一度出た国に甘い顔をしない」姿勢を明確にしている。そのため、イギリスが「以前より有利な条件で戻る」ことはまずあり得ない。つまり、イギリスは自ら選んだ道の帰結として、もはや簡単にはEUに戻れない状態にある。
「秩序を守る国」という自画像
イギリスが移民に対して抱く警戒心には、「秩序を重視する国家」という自認が深く関係している。長い歴史の中で、イギリスは法と慣習によって統治される「安定した国」としてのアイデンティティを築いてきた。政治も社会も急激な変化を嫌い、変化よりも漸進的な改善を好む傾向がある。
移民が「未知の文化」や「異なる価値観」を持ち込む存在として警戒されるのは、この「秩序と安定を重視する国民性」に由来している。もちろん、すべての国民が排他的というわけではない。しかし、社会の根底に「外国人=リスク」という刷り込みがあることは否定できない。
おわりに:理性と感情のはざまで
イギリスがEUに戻らない、あるいは戻れない理由は一言で言えば「移民問題」に集約されるが、その根底にはもっと複雑な国民感情と歴史的背景が横たわっている。経済的には明らかに損をしていても、「秩序の維持」や「国民としての誇り」を優先する判断が、今のイギリス社会では支持されやすい。
今後、世代交代や国際的環境の変化によって国民感情が変われば、再加盟の議論が再燃する可能性もある。しかし現時点では、イギリスがEUに戻るためには、単なる政策転換以上の「社会的自己認識の変化」が必要とされるだろう。
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