
【はじめに:変わる「希望の地」イギリス】
イギリスは長年、多くの人々にとって「より良い未来」が待つ場所として憧れの対象であり続けてきた。特にインド系移民にとって、イギリスとの歴史的つながりは深く、第二次世界大戦後から現在に至るまで、同国の経済・文化・医療・教育分野に多大な貢献をしてきた。
しかし、2020年代に入り、コロナ禍やBrexit、世界的なインフレといった複合的な要因が移民社会を直撃。インド系移民たちの「夢」は、いまや重く、脆く、現実の前に揺らいでいる。
1. 渡英の動機──“夢のロンドン”に託した希望
インド系移民の多くは、特にインド西部グジャラート州やパンジャーブ州、南部のタミル・ナードゥ州などから渡英しており、共通するのは「子どもにより良い教育を受けさせたい」「安定した収入を得たい」といった切実な願いだ。
また、イギリスにはすでに三世代目を迎えるインド系住民が多く存在しており、移民ネットワークや宗教施設(ヒンドゥー寺院やシク教寺など)の存在が新たな移民を呼び寄せる土壌となっている。
ポイント:
- 英国には約180万人のインド系住民(2021年国勢調査)。
- NHS(国民保健サービス)職員のうち、約7.5%が南アジア出身。
- ロンドンの一部地域(例:サウスオール)ではヒンディー語やパンジャーブ語が日常的に聞かれる。
2. 現実に直面する厳しい生活──「ワンルーム29万円」の衝撃
現在のイギリスでは、消費者物価指数(CPI)が前年比で常に5%を超える高水準で推移。特に住宅費と光熱費の高騰が移民の生活を直撃している。
たとえば、ロンドン中心部の家賃は2019年比で約30〜40%上昇。移民が多く住む郊外でも、シェアハウスでさえ月800〜1000ポンド(15〜20万円)が相場となっている。さらに、BrexitによってEU圏からの人材供給が減り、家賃や生活インフラにかかるコストが増大している。
事例:
- バーミンガムのIT技術者、ラジェーシュ・パテル氏は妻のパート収入がなければ生活が成り立たないと語る。
- 「イギリスに来た当初は、1ヶ月に200〜300ポンドは貯金できた。今は赤字になる月もある」
3. 収入が追いつかない──“フルタイムでも貧困”の実態
移民の多くが就いている仕事は、物流、清掃、介護、飲食など労働集約型であり、イギリス国内でも低賃金の部類に入る。特に個人請負で働くデリバリードライバーやUber運転手などは、ガソリン代や保険料が重くのしかかる。
データによる裏付け:
- ロンドンの生活賃金(Living Wage)は時給13.15ポンド(2024年)。しかし多くの移民労働者はこれを下回る水準で働いている。
- 実質賃金(インフレ調整後)は過去10年間でほぼ横ばいか減少傾向。
証言: アニルさん(28歳・デリバリー業):
「雨の日も、風の日も走り回っても、手元に残るのは数百ポンド。夢を追うどころか、生きるだけで精一杯です」
4. 精神的ストレス──“子どもはイギリス人、私は…”
文化的な違いや言語の壁は、移民家庭に多層的なストレスを与えている。特に親世代は英語の習得が難しく、仕事や学校とのやりとり、地域社会への参加に困難を抱える。
専門家の見解: 心理学者スーザン・ブライト氏(ロンドン大学)は「言語的孤立は、うつ病や不安障害の温床となり得る。特に『親としての責任を果たせない』という感情が自己否定に繋がる」と指摘している。
事例: マンチェスター在住のスミタさん:
「先生からの手紙が読めなくて、Google翻訳ばかり使っている。子どもは笑ってるけど、私の心はどんどん疲れていく」
5. 帰国という選択肢──“帰る場所がない”という現実
イギリスでの生活に絶望を感じ、インドへの帰国を考える家庭もある。しかし、インドでは格差と就職難が深刻化しており、「帰っても生きていける保証がない」というジレンマを抱えている。
背景:
- インドの都市部でも失業率は8〜9%(2024年1月時点)。
- 子どもが英語教育に慣れており、現地の教育制度に再適応できない懸念。
6. 社会的サポートの不足と希望の光
英政府は移民に対する社会保障の提供に制度的制限を設けており、多くの人が「ノーリキャース・トゥ・パブリック・ファンズ(No recourse to public funds)」制度の対象となっている。
しかし一方で、地域コミュニティによる支援の芽も見え始めている。たとえば:
- サウスホールのNPO「South Asian Support Hub」は、英語教室や職業訓練を無料で提供。
- バーミンガムでは、寺院を中心としたフードバンク活動が移民家庭の生活を支えている。
7. 変わりゆく英国社会と多文化共生の未来
コロナ禍とBrexit以後の労働力不足の中で、英国は再び「移民の力」を必要としている。にもかかわらず、移民に対する社会的評価や制度の整備は依然として後手に回っている。
今後求められる政策:
- 英語教育支援の強化(成人向けESOLプログラムの拡充)
- 低所得層向け住宅政策の改善
- 子どもを持つ移民家庭への教育支援
【まとめ:夢を追い続ける力と、社会の責任】
イギリスに渡ったインド系移民たちが直面しているのは、経済的苦難だけではない。文化の壁、社会的孤立、将来への不安──そうした要素が複雑に絡み合い、彼らの日常を圧迫している。
それでも彼らは夢を諦めていない。
「自分のために」ではなく、「家族のために」。
移民たちがこの国に希望を見出し続けられるようにするためには、社会全体の視点の変化と、継続的な制度改革が不可欠である。
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