
ストーキング行為は、単なる「しつこい好意」ではありません。被害者の心理的、社会的、さらには経済的な生活基盤を脅かす深刻な犯罪行為です。現代社会では、リアルな接触だけでなく、テクノロジーの進化によりオンライン上でのストーキングも顕著になっており、その実態は複雑化しています。イングランドおよびウェールズにおける統計を中心に、ストーキングの実態、加害者の特徴、被害者が受ける影響、そして制度上の課題を詳しく掘り下げます。
1. 統計から読み解くストーキングの広がり
英国国家統計局(Office for National Statistics:ONS)のデータによれば、イングランドおよびウェールズでは16歳以上の成人のうち、約7人に1人が一度はストーキングの被害を経験しているとされています。これは全人口の14%に相当し、2024年3月までの1年間で約150万人が被害を受けたと推定されています。この数字は氷山の一角に過ぎず、多くの被害は表面化していない可能性があると指摘されています。
特に注目すべきは女性や若年層の被害率の高さです。
- 女性の20.2%(5人に1人)が16歳以降にストーキング被害を経験
- 男性でも8.7%が同様の経験
- 年齢別では16〜19歳の女性の10.5%、男性の6.7%が直近1年間に被害を受けている
これらのデータは、若年層の脆弱性と、デジタルネイティブ世代が抱えるリスクを浮き彫りにしています。
2. 被害者と加害者の関係性
ストーキングというと「見知らぬ人からの付きまとい」を想像する人が多いかもしれませんが、実際は親密な関係にあった人間が加害者となるケースが多いのです。
ONSの報告によれば、
- 約28%の被害者が、元配偶者、元恋人、家族など、かつて親密だった人物からのストーキングを経験
- さらに、約42%の被害者がオンラインでのストーキング被害を報告しており、SNS、メール、GPS追跡アプリなどが悪用されています
特に、関係の破綻後に加害行為が始まる「ポスト・リレーションシップ・ストーキング」は、エスカレーションのリスクが高く、身体的暴力へと発展する可能性も指摘されています。
3. ストーキングがもたらす深刻な影響
ストーキングは「怖い思いをした」で済むようなものではありません。被害者は長期にわたる心理的苦痛を強いられ、その影響は日常生活全般に及びます。
精神的影響
- 不安障害、うつ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)
- 睡眠障害や慢性的なストレス
- 自殺念慮の増加
社会的・経済的影響
- 転職や退職、引っ越しを余儀なくされる
- 学業や家庭生活への悪影響
- 孤立感や他者への不信感の増大
実例:ピーターバラの事件
31歳のメーガン・ブレイルスフォードさんは、元パートナーからの執拗なストーキングを受け、脅迫、虚偽通報、ネットでの中傷など、あらゆる手段で生活を侵食されました。加害者は逮捕・起訴されましたが、彼女は今もトラウマに苦しんでおり、ストーキング被害の「終わりなき後遺症」を象徴しています。
4. 法制度の変遷と現在の課題
制度の変化と整備
英国では以下のように法制度が整備されてきました:
- 1997年:「嫌がらせ防止法(Protection from Harassment Act)」成立。
→ 嫌がらせや付きまとい行為が刑事罰の対象に - 2012年:ストーキングを明確に違法と規定
- 2019年:「ストーキング保護法(Stalking Protection Act 2019)」施行
→ ストーキング保護命令(SPO)により、裁判を待たずに加害者に接近禁止などを命じることが可能に
運用上の問題
しかし、法制度が整っても、実際の運用には課題が山積しています。
- 警察によるリスク評価が不十分
- オンラインストーキングへの知識・対応能力が遅れている
- SPOの活用が進んでおらず、発行数が極めて少ない
- 複数回通報しても「証拠不十分」とされるケースが多い
英国下院図書館の報告では、加害者がSPO違反をしても警察が即時対応しないケースが存在し、被害者の不信感を招いています。
5. 被害者支援体制の実態と限界
支援制度の貧弱さ
2024年の調査では、専門的な支援を受けたストーキング被害者は全体のわずか1%未満。これは、制度自体の未整備に加え、「自分のケースは対象外だ」と感じる心理的障壁、または支援へのアクセス方法の不明確さも影響しています。
支援団体の取り組み
- Victim Support:心理的・法的サポートを無料で提供
- Suzy Lamplugh Trust:行方不明事件の遺族が設立した団体。ストーカー対策に注力
- Paladin:ISAC(独立ストーキング支援アドボケート)による専門的支援
これらの団体は献身的な支援を続けていますが、人員・資金ともに不足しており、支援を必要とするすべての被害者に対応するには限界があります。
6. 比較:他国の取り組み
アメリカ
- 州ごとにストーキング法が存在し、刑罰も比較的重い(最大で禁錮5年超)
- GPS追跡や通話履歴の監視も「ストーキング行為」とみなされる
- 被害者保護命令(Restraining Order)の取得が容易で迅速
日本
- 2000年に「ストーカー規制法」制定
- 2017年にはSNSなどネットストーキングも違法化
- しかし、「警告止まり」「加害者が特定できない」といった運用上の課題が残る
英国は法制度の整備においては一定の評価がある一方、実効性や警察の対応力では他国と比べて後れを取っているといえます。
7. 今後の課題と提言
① 法制度の強化と実効性の確保
- SPOの積極的な活用と違反時の迅速対応
- オンラインストーキングに対応できる警察官の専門教育
- 加害者の再犯防止プログラムの導入
② 支援体制の拡充
- 支援団体への公的資金援助の増加
- 被害者が気軽にアクセスできるホットラインや窓口の開設
- 学校や職場での啓発プログラムの導入
③ 社会的意識の改革
- 「しつこい好意=犯罪」という認識の浸透
- 被害者を責める風潮の撤廃
- メディアによる被害者の声の代弁
結びに:見えない恐怖を可視化し、声を届ける社会へ
ストーキング被害は、数字では見えない「恐怖」や「孤独」を内包しています。被害者の多くは「大げさだ」「証拠がない」と声を上げられず、孤立し、心身ともに追い詰められていきます。法制度の整備や警察の対応強化はもちろん重要ですが、最も必要なのは「被害者が声を上げやすくなる社会環境」を整えることです。
私たち一人ひとりが、ストーキングという犯罪の深刻さを理解し、支援の輪を広げていくことこそが、加害者を抑止し、被害者を守る第一歩になるのではないでしょうか。
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