イギリスもアメリカも、長い間「多様性」を国家の強さとしてきた。
違う国から来た人、違う宗教を持つ人、違う文化や価値観を持つ人。それらを受け入れることこそが成熟した先進国であり、異文化を尊重できない人間のほうが時代遅れである――そんな考え方が社会の中心に置かれてきた。
しかし、ここで一つの疑問が生まれる。
他人の文化を尊重することに夢中になるあまり、自分たちの文化を尊重することを忘れてしまったのではないか。
これは今のイギリス、そしてアメリカを考えるうえで避けられないテーマだと思う。
「相手を尊重する」と「自分を捨てる」は同じではない
異文化を尊重すること自体に問題があるわけではない。
日本人がイギリスに住めば、日本の文化を完全に捨てる必要などない。同じようにインド人、ポーランド人、ナイジェリア人、中国人、イスラム教徒、ユダヤ教徒など、それぞれが自分たちの文化や宗教を持って暮らすことは自然なことだ。
問題になるのは、
「相手の文化を尊重するためには、自国の文化の主張を弱めなければならない」
という発想になったときである。
イギリスにはイギリスの歴史がある。
英語があり、法制度があり、社会的な慣習があり、クリスマスがあり、パブ文化があり、英国王室があり、何百年にもわたり形成されてきた社会の価値観がある。
多文化社会になったからといって、それらを恥ずかしいものとして扱う必要はない。
アメリカについても同じだ。
世界中から移民を受け入れてきた国だからこそ、多様性は国家そのものの一部である。しかし同時に、アメリカという国を成立させている法律、制度、言語、社会規範まで無意味になるわけではない。
多文化主義が成立するためには、本来その土台となる「共通文化」も必要なのである。
景気が良い時代には寛容になれる
そして、この問題を大きく変えているのが経済である。
人間は生活に余裕があるときには寛容になりやすい。
給料が上がり、家が買え、病院にもすぐ行け、子どもの教育にも不安がなく、老後も安心できる。
そんな社会なら、
「困っている人をもっと受け入れよう」
「世界中の人々にチャンスを与えよう」
という考え方にも賛同しやすい。
ところが、自分自身の生活が苦しくなってくると状況は変わる。
家賃が上がる。
食品価格が上がる。
住宅が足りない。
病院の予約が取れない。
税金は高い。
給料はそれほど増えない。
その状態で政府から、
「もっと他者を理解しましょう」
「もっと多様性を尊重しましょう」
と言われても、
「その前に自分たちの生活を何とかしてくれ」
という反応が出てくるのは、それほど不思議ではない。
実際、2026年9月にオックスフォード大学Migration Observatoryがまとめた英国の世論調査では、移民問題を英国が直面する重要な問題だと答える人が再び増加しており、2026年7月には43%が移民を重要課題として挙げた。移民に対する否定的な態度は2010年代から2020年代初頭まで弱まっていたが、2022年以降は再び強まる傾向が確認されている。
つまり、「自国を優先してほしい」という感情は突然現れたわけではない。
社会に余裕がなくなるにつれて、政治の優先順位を国内へ戻してほしいという要求が強くなっているのである。
アメリカでも「まず自分たち」が強くなる
アメリカでも似た現象が見える。
2026年7月のPew Research Centerの調査では、アメリカ経済の状態を「良い」または「非常に良い」と評価した人は24%にとどまった。経済に対する不満が依然として強い状態である。
ただし、ここで注意しなければならないことがある。
経済への不満が、そのまま「移民を嫌っている」という意味ではない。
2026年6月のGallup調査では、アメリカ人の73%が依然として「移民はアメリカにとって良いことだ」と答えている。
この数字は非常に重要である。
人々が求めているものは必ずしも、
「外国人をすべて追い出せ」
ではない。
むしろ、
「受け入れる人数や条件を国家がコントロールしてほしい」
「自国民の住宅、雇用、医療、治安を先に考えてほしい」
という要求と、
外国人そのものへの嫌悪感は区別して考える必要がある。
ここを一緒にしてしまうから議論がおかしくなる。
「自国ファースト」は必ずしも差別ではない
「自国ファースト」という言葉を口にすると、すぐに差別主義や極右という言葉が飛んでくることがある。
しかし国家という仕組みを考えてみれば、自国民の利益を優先すること自体は特別な思想ではない。
日本政府なら日本国民。
イギリス政府なら英国民。
アメリカ政府ならアメリカ国民。
それぞれの政府が、自国に暮らし税金を払う人々の安全や生活を重要視するのは国家の基本的な役割である。
問題なのは、その「自国優先」が、
「外国人だから権利を認めない」
「人種が違うから排除する」
「宗教が違うから危険人物として扱う」
という方向へ変わったときである。
そこから先は政策上の優先順位ではなく、人間そのものに対する差別になっていく。
つまり、
自国ファーストと差別主義は同じものではない。
ただし、自国ファーストを掲げる政治が、経済的不満や恐怖を利用して外国人全体を敵に仕立てるなら、その境界線は簡単に越えられてしまう。
不景気になると「誰のせいなのか」を探し始める
歴史を見ても、社会が不安定になると人間は原因を単純化したくなる。
なぜ給料が上がらないのか。
なぜ家が買えないのか。
なぜ病院が混んでいるのか。
なぜ犯罪が起きるのか。
本当は金融政策、住宅供給、人口構造、産業政策、地方財政、エネルギー価格、社会保障制度など、多くの原因が複雑に絡み合っている。
しかし、それを説明するのは難しい。
そのため政治では、
「移民が原因だ」
「外国人が原因だ」
「グローバリズムが原因だ」
という単純な説明が力を持つことがある。
研究でも、若い時期に景気後退を経験した人ほど、その後に反移民的な態度を持ちやすくなる可能性が示されている。経済的不安と移民への態度には、無視できない関係がある。
だからこそ、不景気の時代ほど社会は危うい。
イギリス人が「イギリスらしさ」を語れない社会も不自然
一方で、差別を恐れるあまり、自国文化について何も語れなくなる社会も健全とは言いにくい。
日本人が日本文化を大切にすると言っても、それだけで外国人差別にはならない。
フランス人がフランス語やフランス料理を誇りに思っても問題ではない。
ならばイギリス人が、
「イギリスの文化を残したい」
「英語を社会の共通言語として重視したい」
「英国の法律や価値観を尊重してほしい」
と言うことまで差別扱いする必要はないだろう。
むしろ、多文化社会だからこそ、
「ここから先は共通ルールです」
という線引きは必要になる。
何でも受け入れることが多様性なのではない。
異なる文化を持った人間同士が同じ国で生活するためには、最後には全員が従う共通のルールがなければならない。
「多文化主義の終了」ではなく、「無制限な寛容の終了」
これからのイギリスやアメリカで起きるのは、多文化社会そのものの終了ではないだろう。
すでに社会はあまりにも多様化している。
時間を50年前に戻すことなどできない。
だから現実的に起きる可能性が高いのは、
「無条件に何でも受け入れる多文化主義」から、「条件付きの多文化主義」への移行である。
外国から人を受け入れる。
しかし人数は管理する。
必要な技能を持つ人を優先する。
難民を保護する。
しかし制度を悪用する人には対応する。
異文化を尊重する。
しかし同時に、自国の法律や社会規範も尊重してもらう。
これは外国人を嫌うこととは違う。
国家として境界線を引くということである。
そして最も危険なのは「余裕のない社会」
結局、問題の根本にあるのは移民でも、多文化主義でもないのかもしれない。
社会から余裕がなくなっていることなのではないか。
人間は自分の生活が満たされているときには他人にも優しくできる。
しかし、自分の家族の生活すら守れないと感じ始めれば、他人への寛容さは失われていく。
だからイギリスやアメリカで「自国ファースト」という言葉が強くなるのは、ある意味では当然の現象でもある。
問題は、その次である。
自国を大切にすることと、他国の人間を憎むことは同じではない。
国境を管理することと、人種で人間を判断することも同じではない。
自国民を優先する政策を議論することと、差別を正当化することも同じではない。
この境界線を失ったとき、自国を守るための運動だったはずのものが、単なる「誰かを排除するための運動」に変わってしまう。
イギリスもアメリカも今、その境界線の上に立っている。
異文化を尊重する時代から、自国の文化と利益をもう一度見直す時代へ。
その流れ自体は止められないかもしれない。
しかしこれから問われるのは、
「自国を大切にする国」になるのか、それとも「他者を排除する国」になるのか。
似ているように見えるこの二つは、実際にはまったく違う。
景気が悪くなり、人々から余裕が消えた今だからこそ、その違いを理解することが、イギリスにもアメリカにも必要なのではないだろうか。










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