イギリスには、サッカーが好きな人が多い。
……という表現では、まったく足りない人たちがいる。
彼らにとってサッカーは趣味ではない。週末の予定でもない。
人生のカレンダーそのものである。
結婚式の日取りは代表戦と重ならないか。
夏休みはプレミアリーグの開幕前に終えられるか。
家族との食事はハーフタイムまでに戻れるか。
そしてワールドカップになれば、貯金、休暇、健康、家庭内の空気まで、すべてが「イングランドがどこまで勝ち進むか」に連動する。
普通の人が「老後のために家を大切にしよう」と考える場面で、彼らはこう考える。
「この家、売れば準々決勝までは行けるのでは?」
家を売ってでも行きたい――ただし、正確には“第二物件”
2026年ワールドカップを前に話題になったのが、イングランド代表の熱狂的サポーター、アンディ・ミルンさんだ。
元教師のミルンさんは、イングランドを追って数多くの大会を旅してきた“スーパーファン”。今回もアメリカ、カナダ、メキシコをまたいで代表戦を追うため、北イングランドに所有していた賃貸用の第二物件を売りに出す意向を明らかにした。報道では「家を売ってワールドカップへ」と大きく紹介されたが、厳密には自宅を失って路頭に迷うという話ではない。それでも、約35万ポンドの物件を遠征資金の選択肢に入れる発想は、十分すぎるほど英国サッカー文化を象徴している。
本人にとっては、単なる散財ではないのだろう。
家はまた買えるかもしれない。
しかし、「イングランドがワールドカップで優勝する瞬間」は、次がある保証などない。
この理屈は、冷静に考えればかなり危険である。
だがサッカーファンの世界では、妙に説得力を持ってしまう。
今回は“アメリカ大会”ではあるが、移動は北米大陸規模
今回の2026年ワールドカップは、アメリカだけでなく、カナダとメキシコも含む3か国共同開催である。48チーム、104試合という史上最大規模の大会で、会場間の移動距離も、従来のヨーロッパ大会とは比較にならない。
ロンドンからマンチェスターへ行く感覚で、「次の試合は隣の都市」と思っていると痛い目を見る。
ダラスの次はメキシコ。
その次はカナダ。
もしイングランドが勝ち進めば、さらに別の都市へ。
つまり、航空券、ホテル、レンタカー、国内線、食事、チケットが、代表の勝利とともに増殖していく。サポーターにとって勝利は喜びだが、クレジットカードにとっては延長戦である。
チケット代が、もはや“応援”の域を超えている
今回のワールドカップでは、チケット価格の高さも大きな問題になった。
英国のサポーター団体は、イングランド戦をグループステージから決勝まで追う場合、公式割当のチケットだけでも数千ポンド規模になると批判した。決勝の最低価格帯についても、発表時には3,000ポンド超と報じられた。もちろん、これに北米への航空券、現地移動、宿泊費、食費、ビール代、そして「せっかく来たから」という謎の勢いで買う代表ユニフォーム代は含まれていない。
だから、普通の人はテレビで観る。
しかし一部の英国人男性は違う。
「テレビで観るなら、現地で歌ったほうがいい」
「現地で歌うなら、全試合に行ったほうがいい」
「全試合に行くなら、家の資産を見直したほうがいい」
この三段論法が、なぜか成立してしまう。
サッカーは“観戦”ではなく、“参加”である
日本では、サッカー観戦はスポーツを楽しむ時間という感覚が強いかもしれない。
しかしイギリスの一部サポーターにとっては、スタジアムへ行くこと自体が試合の一部だ。
90分間、歌い、叫び、審判に怒り、相手チームをからかい、ハーフタイムには「前半は悪くなかった」と言いながらビールを買う。
そして試合後、負けたら「監督が悪い」。
勝ったら「最初から信じていた」。
引き分けなら「次で取り返す」。
この繰り返しを何十年も続ける。
クラブチームのアウェー遠征も、代表戦も、本人たちにとっては旅行ではない。
巡礼である。
家を売る話が笑えてしまうのは、それが完全な冗談ではないからだ。
サッカーを愛するあまり、人生の優先順位が少しだけ、いやかなり狂っている。
でも、その狂い方には、どこか羨ましさもある。
彼らが本当に買っているもの
アンディ・ミルンさんのようなサポーターが買っているのは、単なる観戦チケットではない。
「知らない街で、同じユニフォームを着た人たちと歌う時間」
「勝利のあとに見知らぬ人と抱き合う瞬間」
「負けた翌朝、ホテルの朝食で無言になる記憶」
「次の大会では絶対に優勝すると、また信じてしまう物語」
そういうものに、彼らは人生を使っている。
もちろん、家を売る前には一度、冷静にファイナンシャル・アドバイザーに相談したほうがいい。
しかし、人生を後から振り返ったときに、「あの時、現地にいた」と言えることの価値も、お金だけでは測れない。
サッカーに人生をささげるイギリス人男性たちは、今日もどこかで航空券の値段を見ながら悩んでいる。
そして、おそらく最後にはこう言うのだ。
「まあ、家はある。でも次のワールドカップは4年後だ」










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